反日プロパガンダと
会津プロパガンダと
アイヌプロパガンダ。ついでに朝鮮と南京。似たり寄ったりのものを並べてみました。
「全て反日プロパガンダじゃない?」という突っ込みはさておき。
あっ、
沖縄を忘れていますね。
薩摩による琉球支配等、過分に
虚偽情報が紛れ込んでいますよ。
面白いのは、何れも当事者やその血筋の方がほぼ関わっていない点ですが。
※アイヌに関しても、協会に所属するのは10分の1程度***
さて、本題に入ります。私の母は福島出身です。
日本古来の蝦夷(
東北蝦夷)の一氏族であるアベの人間です。
カナで「アベ」と書くのは、時代により表記の変遷があるからです。
興味のある方は過去記事をどうぞ。
⇒
アベの語源はアイヌ語のアフィじゃない(2017/03/31) http://fuwameg.blog.fc2.com/blog-entry-1715.htmlそういった背景がありますから、母の故郷の歴史として、
会津藩士の悲劇に関しても、幼少から色々と聞かされていました。
特に白虎隊や娘子隊。
遺体の埋葬に関してもそうですね。
ですが、ここに来て違和感を覚え始めました。
否、違和感だけなら、かなり以前から抱き続けて来たのですが。
今では遺体が二年間、野晒しにされた事になっているし、
しかも刑場に運び込まれた事になっているんですよ。
南京にそっくり。犠牲者はいつの間にか30万人に達しましたよね。
東京の世田谷より狭い城砦都市で、広島・長崎の原爆犠牲者を超える虐殺って、
人懐戦術でどうやって??? 日本軍がそんなに強かったら、戦争に負けません。
***
そんな事を考えていたら、
某作家(歴史家?)の存在を知りました。
安倍政権に対し、「戊辰戦争での謝罪、謝罪」と求めています。
確かに総理は長州出身ですが、別に戊辰戦争を主導した血筋でも何でもない。
桂太郎を始め、地元の名士に誇りを持つのも、人間として自然な郷土愛です。
確かに日本国政府は、薩長政権の流れを汲む統治形態・システムですが、
そもそも投票によりリーダーが選ばれる民主制の時代に、それを言う?
何より、150年前の内戦に基いて
現政権の是非を問うとか( ̄∀ ̄;あまりにも論調がどこかの民族とそっくりなので、ちょっと調べました。
長くなりますが引用します。福島民報と河北新報の記事、2件です。
※太字の部分だけで要点は掴めます。史料的な意味で全文残したいので。
会津藩士埋葬の史料発見 「戦死屍取仕末金銭入用帳」の写し 戊辰戦争で会津藩が降伏した直後の1868(明治元)年10月、
戦死した藩士らが埋葬されていたとする史料が会津若松市で見つかった。従来は、西軍(新政府軍)が遺体の埋葬を許さなかったとされてきたが、埋葬場所、埋葬経費などが詳細に記されている。
見つかった史料は「戦死屍取仕末金銭入用帳」の写し。筆者は不明だが、写しは会津藩の要職を務めた藤沢内蔵丞(ふじさわ・くらのじょう)の子孫が約40年前に市に寄贈した史料約170点のうちの1点。
会津歴史考房を主宰している野口信一さん(68)が昨年12月、市史史料目録を整理するため史料を借り受け、内容を確認していた際に発見した。
写しによると、1868年10月3日から同17日にかけ、会津藩士4人が中心となり、鶴ケ城郭内外などにあった567体の遺体を発見場所周辺の寺や墓など市内64カ所に集めて埋葬した。発見当時の服装や遺体の状態、名前が記載されているものもある。
このうち、蚕養神社の西の畑にあった22体は近隣の60代女性が西軍の武士に頼み、近くに葬ってもらったとの記載がある。
戊辰戦争のうち会津戦争では会津藩士ら約3000人が亡くなったとされる。西軍は遺体の埋葬を許さず、降伏から半年後の1869年2月に現在の会津若松市七日町にある阿弥陀寺に改葬が始まるまで、野ざらし状態だったと言い伝えられてきた。
地元の歴史関係者によると、この対応が長年、西軍側との感情的な溝を築く要因の一つとなってきた。
野口さんは
「
伝染病の発生など衛生面を考えても半年間、遺体が放置されたというのはあり得ない。 史料から少なくとも500人以上が埋葬されていたと分かる」と話している。
福島民報 2017/09/25 10:22
http://www.minpo.jp/news/detail/2017092545375
***
<戊辰戦争>
戦死の会津藩士「半年間野ざらし」定説覆る 「降伏直後埋葬」示す新史料 戊辰戦争(1868年)で戦死した会津藩士の遺体が会津藩降伏直後に埋葬されたことを示す史料が見つかったと、会津若松市史研究会副会長の野口信一さん(68)が2日、発表した。遺体は新政府軍が埋葬を禁じ、半年間野ざらしにされたと伝えられてきた。
会津若松市民の長州藩(山口県)に対する感情的なしこりの一因になった埋葬禁止説が覆るとして、野口さんは「藩士がすぐに埋葬されたことが分かり、喜ばしい」と話している。
史料は「戦死屍取仕末(せんしかばねとりしまつ)金銭入用帳」で、戦死者の埋葬や金銭支払いが記入されている。市から調査を受託する研究会が昨年12月に発見。地元在住の会津藩士子孫が1981年に若松城天守閣博物館に寄贈した史料に含まれていた。
それによると、新政府は会津藩降伏の10日後の10月2日(旧暦)、埋葬を命令。翌3~17日、会津藩士4人が中心になって567人を64カ所に埋葬した。経費は74両(約450万円)。延べ384人が動員され、1人当たり1日2朱(7500円)を支給していた。
家紋の図など遺体発見当時の服装が詳細に記され、女性や子どもの遺体もあった。大砲隊を指揮した山本八重の父山本権八の遺体や、一族21人が自刃した家老西郷頼母邸で発見された遺骨、白虎隊士と思われる遺骨の記述もある。
野口さんは「69年2月に阿弥陀寺へ改葬したことを半年も放置したと誤認したと思われる。埋葬禁止説は昭和30年代以前はなかった」と説明。「長州への怨念の障壁が取り除かれ、会津若松市民と山口県萩市との友好関係が築けたらうれしい」と期待する。 野口さんは史料についてまとめた「会津戊辰戦死者埋葬の虚と実 戊辰受難者祭祀の歴史」(歴史春秋社)を11日に出版する。会津若松市資料センターはコピーを1枚20円で頒布する。
10/3(火) 11:05配信 河北新報
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20171003-00000014-khks-soci
会津万歳! \(*^▽^*)/
やっぱり本物の会津若松市民は、
長州との確執なんて望んでなかったんだよ!星亮一は要らないから、
これからは野口信一さんで。2018/01/19 不破 慈(ふわめぐみ)
※アップ翌日、赤字注意書き追加

昭和30年代まで、埋葬禁止説なんて無かったんですね。
母が昭和17年生ですから、中学くらいの時から刷り込まれたワケか。
やっぱり「東北 vs 中央」の構図なんて、列島分断工作に過ぎないんだ(笑)
東北の雄・安倍貞任の子孫は総理大臣(2017/09/21)http://fuwameg.blog.fc2.com/blog-entry-1729.html#bundan
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あなたのように会津プロパガンダに
騙されない人が増えて欲しいものです。