古代日本の元号。飛鳥時代には、
大化・白雉・朱鳥・大宝・慶雲・和銅の
計6つが制定されたと伝えられています。ですが、大化・白雉・朱鳥に関しては、
出土した木簡での確認が取れないのです。
※引用、漢数字⇒アラビア数字 藤原宮跡(特別史跡)および福岡市元岡遺跡から、大宝年号(701―)を記した木簡が出土している。大宝年号はこれまでに元年(3点)・二年(8点)・三年(3点)が見つかっていて、諸国官衙が日本独自年号の使用を徹底したことがわかる。
大宝以前の年号とされる大化、白雉、朱鳥年号については、日本年号を記した木簡は出土していない。該当念の木簡は何点も出土しているが、干支記載のみであった。おそらく今後も大化・白雉・朱鳥年号木簡の出土はないだろう。日本が独自の年号を使用したのは事実上大宝以後であり、大宝以前には飛鳥浄御原朝(天武・持統朝)での地方機関は、おそらくは中央も含めて、中国年号を使用することがあった。
高麗・朝鮮や琉球は、のちにも独自の年号は持ちえず、中国年号を奉じ続けたけれど、大宝律令以前の日本も同様だった。※史跡で読む日本の歴史8「アジアの中の日本」(p3-4)
編者:服部英雄/吉川弘文館2010.8.10
……ここで皆さま、「大化・白雉・朱鳥は創作なの?!」と、
肩を落としてしまうかも知れませんが。ちょっと待って下さい。
考古学の世界には、
事実史と記憶史という考え方があるんですよ♪
この場合、事実史を構築するための材料として、以下の状況があります。
①大化・白雉・朱鳥の年号を記した出土物が存在しない。
②該当する年代の木簡には、干支のみが記載されている。
③中国の年号が記された刀剣などは見つかっている。
※中国産or日本産の論争アリそこから考えるに、大化・白雉・朱鳥は、確かに後年の創作でしょう。
でも、創作・捏造であっても、記憶史の観点で見た場合は意味を持ちます。
その「記憶」が事実に反するとして。何故、そのように伝えられてきたのか。人間は事実誤認もしますから。単なる勘違いが伝わった場合もあるでしょう。
でも、この場合は何か目的がありそう。目的があったとして、その意図は?
当時の人々は、何を考えていたのでしょう。世界観は? 心象風景は?
それを踏まえた時。創作された3つの元号に、私は気概を感じるのです。
当時はまだ小国だった日本が、中華皇帝の軛から逃れようとしました。「超大国だろうが何だろうが、必ず渡り合えるようになってやる!」
遠い古代に、日本だけが現状維持に甘んじなかったということですよ。
有色人種≒奴隷だった時代も、白人支配に立ち向かったのは日本でした。
日本人が突破口を開いたんです。ご存知の通り、世界はひっくり返ります。
勿論、今の時代に、後追いで元号を創作したら、大問題になりますが(^p^;
何が記憶史になるのかを知るためにも、事実史の探求は大事です。
事実史と記憶史が一致する場合もありますし、この二つは両輪なんです。
古代に創作された3つの元号が、日本人の魂について教えてくれています。
2023/5/1 不破 慈(曾祖母がアイヌ)
大仙陵古墳(伝仁徳天皇陵)の論争も、事実史を明らかにしようとの試みです。
息子の允恭天皇の陵墓では? との提起でした。「反日だ!」は言い掛りです。
リアルタイムでの記録がない時代の陵墓は、伝承を基に比定されたので。
ちなみに。考古学では、継体天皇の真陵が今城塚古墳だと考えられています。
史跡公園として整備され、市民の憩いの場になっていますよ。見学してみては?