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二番目の山羊 ~アイヌは先住民族に非ず

2008年の先住民決議は騙し討ち。2019年のアイヌ新法も不当です。 ※現在は、ツイアカもFBアカも持っていません。 【 pixiv:5770560 】

南樺太:続縄文からオホーツク文化へ

嘗ては、南樺太も続縄文文化圏でした。

特にアニワ文化は、続縄文の一地方形だと
日露双方の専門家に広く認識されています。




※論文の内容の要旨(福田正宏氏)
極東ロシアから北日本における先史土器の研究
 ―紀元前1千年紀のアムール下流域
   ~北海道における土器型式群の系統論的考察―


※途中から抜粋、改行を加えました
3.サハリン新石器文化の土器型式間交渉
 新石器時代のサハリン南部には南サハリン・アニワ・鈴谷文化がある。南サハリン文化の宗仁式は道東の縄文早期の型式と関係するとされたが不確実で,アニワ式は宗谷海峡周辺の続縄文期の型式である。サハリン北部には櫛歯ジグザグ文土器をともなうイムチン文化,櫛歯文・櫛描文・型押文土器のある北サハリン文化があった。
(略)
新石器時代のサハリン南北では,土器型式の変遷が通時的に大きく異なった可能性が高い。アニワ式の一部もしくはその次に成立した南部の縄線文土器と北サハリン文化の櫛歯文土器が,旧国境線あたりで接触して櫛歯文・縄線文をもつ鈴谷式が成立したのなら,この段階で南北の対置的な文化配置が崩れたと考えられる。

※福田正宏氏(現・東大准教授)の学位論文要旨、全文(↓)
http://gakui.dl.itc.u-tokyo.ac.jp/data/h17/216438/216438a.pdf




……「旧国境線あたりで接触して」「鈴谷式が成立したのなら」とあります。
引用文から判るように、鈴谷式土器(文化)は、南北の特長を併せ持ちます。

続縄文の一型式orオホーツクの一型式かで、専門家の見解が分かれており、
それが原因で、オホーツク文化の成立も、5世紀or3世紀で分かれます。

 ①鈴谷式が続縄文系なら、オホーツク文化成立は5世紀頃
 ②鈴谷式がオホーツク系なら、オホーツク文化成立は3世紀頃


何れにしろ、北方(北樺太)要素の強まった鈴谷文化は、
宗谷海峡を越えて、3世紀頃には道北にも南下してきました。
続縄文の一型式である、アニワ文化の後を受けて拡がったんです。

もともと、北海道と樺太には、旧石器時代から交流がありました。
縄文土器だって出て来ます。対岸の南樺太から。ただ、数は少なくて。
あくまで客体としての出土なので、縄文文化圏としては扱われませんが。

続縄文時代には、南樺太のみならず、中千島辺りまで進出したようです。

単純に、現地の人々が土器型式を受け入れたと考えることも出来ますが。
恐らくは、人の移動を伴ったでしょう。混交も進んだと思いますよ。
北上するに連れ、血(縄文要素)は薄まったでしょうけれど。



続縄文時代とは、単純な縄文文化の継続ではありません。

もともと、北海道縄文人は魚介・海獣に依存する食生活でしたが。
続縄文時代になると、更に漁撈採集へと特化していくんですよ。

ここに、オホーツク圏の海洋民との親和性が見られます。

樺太~北海道北部~千島列島の、環オホーツク海南岸一帯が、
後にオホーツク文化人と呼ばれることになる人々の縄張りでした。




2022/07/03  不破 慈(曾祖母はアイヌ)  ※タイトル一部修正(7/6)

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現在、「北海道にも弥生時代があった」との主張が散見されます。
確かに、土器型式で見れば、恵山式(渡島~石狩)は弥生系土器ですが。
問われるのは主たる生業です。水稲水田耕作の導入を以って弥生時代です。

※前4世紀、本州北端でも稲作が行われますが、すぐ放棄されました。
 北東北も暫くの間、南樺太~北海道~千島と同様、続縄文文化圏でした。

[タグ未指定]
[ 2022/07/03 11:24 ] アイヌ問題 -4.人類学、DNA | TB(0) | CM(0)

北の元寇:樺太から追われたのはアイヌだったか?

13世紀末、元軍の侵攻を受け、
樺太からオホーツク文化人が南下。


宮脇淳子著、世界史のなかの蒙古襲来 扶桑社20190630  ※抜粋(漢数字⇒アラビア数字、[]内はルビ)

 1284年に、元軍は樺太遠征も行いました。これは、その前年に、アムール河下流から樺太に住んでいた吉里迷[ギレミ](ギリヤーク族、今はニブフと呼ばれる)が、モンゴル建国の功臣ムカリ(国王と呼ばれる)の子孫シデの遠征により、モンゴルに服従したことによります。元の家来になっていた樺太の吉里迷が、骨嵬[クイ](アイヌ族)が毎年侵入してくると訴えたので、それを追い払うための遠征でした。
 1284年から86年、元は征東招討司に骨嵬攻撃を命令し、85年には1万人、86年には「兵万人・舟千艘」で功撃しましたが、これはアイヌによる黒竜江流域への侵入を排除するためで、この84~86年の攻撃により、アイヌ勢は樺太からほぼ排除されてしまいます。そうして元は樺太南端に果夥[クオフオ]城を設けたのです。
※世界史のなかの蒙古襲来(p232-233)/宮脇淳子/扶桑社2019.6.30




……史学界を中心に、骨嵬[クイ]≒アイヌと考えられていますが、
オホーツク文化人の間違いです。アイヌ御用学者による弊害もあるかと。

オホーツク文化人は、5世紀頃から樺太を中心に栄え、
13世紀には、忽然と姿を消してしまった人達です。



文言(名称)に囚われなければ、史実にピッタリと当て嵌まるでしょう?

或いは、ギレミにクイ、双方がオホーツク文化人だったのかも知れません。
つまり、部族間抗争に、北方のギレミが元軍を介入させた、ということ。

その場合は、ギレミによって、オホーツク文化が存続される筈ですが。
樺太北部には、金王朝の代から支配が及んでいたとする見方もあり、
オホーツク文化人としてのギレミは、既に変容していたのかも?



さて。話を、難民化したオホーツク文化人に戻します。
彼等の南下は、13世紀が初めてではありません。
3段階で考えると解りやすいでしょう。

 ①阿倍比羅夫と戦闘 ⇒ 持統天皇の御代に朝貢(7世紀)
 ②道東域のオホーツク人が擦文化 ⇒ トビニタイ文化(9・10世紀~)
 ③北の元寇で難民に。北海道に流入 ⇒ アイヌ文化(13・14世紀~)


……②について補足します。道東域のオホーツク文化人はですね、
以前から擦文文化人との同化が進んでいました。トビニタイ文化です。
知床半島の羅臼町・飛仁帯で遺跡が発見されたことから、こう呼ばれます。

実は、1960年に遺跡が発見されるまで、研究者は頭を悩ませていたんです。
北海道の歴史が繋がらなくて。擦文⇒アイヌだと文化的隔絶が大き過ぎる。

それが、トビニタイ文化(9・10世紀~)の発見により、解消されました。
擦文とオホーツク、両者を足して2で割ったような文化・生活様式なんです。



それでも、以下のように主張する人々がいるでしょう(↓)
「オホーツク人は不法侵入者。擦文人を駆逐して居座ったのがアイヌ」

……残念ながら、オホーツク文化単独でも、アイヌ文化に繋がりません。

オホーツク文化人は海洋民で、少なくとも3種の舟を使い分け、
居住域は海岸部に限定されました
。最も内陸の遺跡ですら、
現在の海岸から、1kmの距離にあるくらいなんです。


オホーツクと擦文は、確実に融合しました。




2022/06/26  不破 慈(曾祖母はアイヌ)

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オホーツク文化の遺跡としては、網走川河口のモヨロ貝塚が有名ですが。
奥尻島でも、6~7世紀頃の遺構が見付かっています。青苗砂丘遺跡です。

※阿倍比羅夫との戦闘&持統朝への朝貢については、過去記事をどうぞ(↓)
 アイヌとして成立する500年前から天皇の臣下 (2020/08/01)
 http://fuwameg.blog.fc2.com/blog-entry-2070.html

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[ 2022/06/26 11:29 ] アイヌ問題 -4.人類学、DNA | TB(0) | CM(4)

近世アイヌは土器を使わない:和人社会から鉄鍋を入手

アイヌは土器を使わなくなりました。
和人と交易し、鉄鍋を入手できたので。



東京大学大学院人文社会系研究科・文学部 2008年度
北海道における鉄文化の考古学的研究
-鉄ならびに鉄器の生産と普及を中心として- 笹田 朋孝


※途中から抜粋
擦文文化後期(11世紀ごろ)に鉄器の出土率ならびに一軒当たりの鉄器数が増加する。青森では9世紀後半に鉄器生産の急増に伴い、鉄器の出土も急増している。青森と擦文文化の鉄器の増加には1世紀以上のタイムラグがあるが、基本的には北海道の鉄は青森をはじめとする北奥と関連しながら変遷を辿る
(略)
第Ⅵ章では、アイヌ文化期の鉄器の普及とその交易を論じた。現時点では12~14世紀前半の鉄の様相は明らかではない。14世紀後半以降、鉄器組成に鉄鍋や刀が加わり、鉄器の出土率や出土数が急増する
(略)
アイヌ文化期では擦文文化期の少なくとも数倍以上の鉄器が出土している。
(略)

※笹田朋孝氏(現・愛媛大学准教授)の論文概要、全文(↓)
https://www.l.u-tokyo.ac.jp/postgraduate/database/2008/624.html




……本州以南(和人社会)から鉄鍋を入手できるなら、
わざわざ土器なんて作りませんよね。重いし。落とせば割れるし。

さて。ここで、もう一件。鉄鍋の普及に関し、参考になりそうなお話を。
岩手県奥州市水沢羽田町にある、及源鋳造株式会社様のHPからです。
えさし郷土文化館の学芸員・野坂晃平さんが寄せられた文章(↓)

鉄鍋の登場 ※抜粋、改行を加えました。

 水沢玉(たま)貫(ぬき)遺跡から出土した鉄鍋は、吊り下げるための耳が口(こう)縁部(えんぶ)の内側に取り付けられているのが大きな特徴であることから「内耳鉄鍋」と呼ばれる。耳は向かい合うように2箇所に付く縦耳となっている。
(略)
 内耳の鍋は東海や関東甲信地方から多く出土しているが、そのほとんどが“土製”である。一方で内耳鉄鍋は北海道の近世の遺跡に多い。
東北地方北部では、平泉、水沢、陸前高田、一戸、横手などから良好な内耳鉄鍋が出土しており、年代も11~12世紀頃のものと推定されていることから、その歴史が平安時代後期にまでさかのぼることを示している。


ただし出土例は極めて少なく、この頃に鉄鍋が一般の集落にまで広く普及していたとは考えにくい。
※野坂晃平氏による全文⇒ https://oigen.jp/enjoy/localculture/12414/




……平安後期、11~12世紀ということは、奥州藤原氏の時代。
鉄鍋の所有は、富裕層に限られたとは云え、北奥は先進地域でした。

実は12世紀以降、オホーツク文化圏でも内耳土器が盛んに作られます。
アイヌ文化成立は13世紀以降ですが、初期の頃は使っていたんですよ?

千島~カムチャツカ南部では、18~19世紀まで内耳土器が使われます。
和人社会との繋がりが深い北海道では、早くに鉄鍋が普及したんですね。




2022/06/05  不破 慈(曾祖母はアイヌ)

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12世紀・道南は奥州藤原氏の勢力圏 (2016/05/25)
http://fuwameg.blog.fc2.com/blog-entry-1643.html

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[ 2022/06/05 13:58 ] アイヌ問題 -4.人類学、DNA | TB(0) | CM(0)

日本文明:世界で唯一、王朝・国家と一体の文明圏

英語の「civilization(文明)」の「civil」。

辞書で調べると形容詞で、「市民の・公民の」
国家の・国内の」といった意味があります。





古代ギリシャの都市国家(ポリス)が、解りやすいでしょうか。
アテネ(最盛期の人口3万人)やスパルタ(最盛期1万人)。
標準的なポリスだと、人口は5000人くらいと見られます。

ポリス同士は、互いの国益を巡って激しく戦争もしますが、
外敵に対しては一致団結。文化圏としての強い絆がありました。

この都市国家同士が繋がり、やがて領域国家へと拡大していきます。


国際政治学者のサミュエル・ハンチントンが、著書『文明の衝突』で、
日本文明はAD100~400年頃に中華文明から独立して成立と定義しました。

2世紀後半の倭国大乱は、ポリス(都市国家)同士の争いにも見えますし、
列島内でクニ同士が結束し、古墳初期にヤマト政権へと収斂されていく様を、
領域国家の成立と捉えたのではないかと。唯一現存する古代国家でもあります。



……ここで忘れてはいけないことが。日本の国体とは、天皇です。
実際、ヤマト政権(当時、天皇号はなく大王)の許に結集する形で、
日本は、都市国家 ⇒ 連合国家 ⇒ 領域国家へとステップアップした。

意外なことに、北端のアイヌとて例外ではないんですよ。
アイヌの祖先(の一系統)となったオホーツク文化人の一派は、
7世紀末、持統天皇の御代に、臣下として朝貢に参じているのです。

持統天皇十(西暦696)年、渡嶋蝦夷と粛慎に賜物  ※錦・絹・斧など
 さて、「渡嶋蝦夷」と目にすれば、道南西部の渡島(おしま)半島を思い浮かべる方が多いでしょう。ただ、読みは「渡嶋(わたりのしま)蝦夷」です。単純に北海道というよりも、津軽半島北部~海峡付近に勢力を持っ...
アイヌは、アイヌとして成立する500年前から天皇の臣下(2020/08/01)





……「中華文明から独立した」と言われてしまうのは、仕方ないですね。
実際、大陸の皇帝に朝貢し、金印まで授かるクニが、一部にはありました。

ですが、当時の指導者達は、列島内(天皇の許)での結束を選びます。
そこが、中華文明圏内に留まった朝鮮半島の国々との、明確な違いです。




2022/05/29  不破 慈(曾祖母はアイヌ)  ※AC⇒ADに修整(6/30)

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磨製石器土器の出現を以って、文明の成立と解釈する方々がいますが。
両者は長らく、1万1000年前に始まる新石器時代を特徴づけてきました。

日本の縄文時代が、従来の新石器時代の枠組みに入らないのは、事実です。
かといって、いきなり「文明」に昇格させると、世界中、文明だらけになる。
最古といわれるメソポタミア文明ですら、5500年程前に遡るだけだったのに。

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[ 2022/05/29 13:53 ] アイヌ問題 -4.人類学、DNA | TB(0) | CM(0)

世界最古級の土器、東北アジア全域に点在

東北アジアは土器の出現が早かった。
藤尾慎一郎著、日本の先史時代p42より、中公新書2654/原図:佐藤宏之著、旧石器時代、敬文社

東北アジアにおける土器の出現  ※漢数字⇒アラビア数字

 実は、日本を含む東北アジアは、世界でもっとも早く土器が出現した地域であることがわかってきている(佐藤宏之『旧石器時代』)。その時期は、おおよそ次の四つの段階に分かれる(図10)。

 ①約2万2000年前の寒冷期 : 東・南中国で出現
 ②約1万6000年前の温暖期に向かう直前 : 東北北部・九州北部
 ③約1万4800年前の温暖期 : 沿バイカル・アムール流域と北海道
 ④約1万3000年前~1万1700年前の寒冷期 : 中国北部・北東部


(中略)
 このように、東北アジアの土器は複数の地域の異なる環境において多元的に現れており、どこか一ヶ所で現れた土器が各地へ拡がっていったという状況ではなかったと考えられている。

※藤尾慎一郎「日本の先史時代」(p41-43より)/中公新書2654(2021.8.25)
 図10画像はp42より、原図は佐藤宏之「旧石器時代」敬文社




……2万2000年前というと、最終氷期の最寒冷期、真っ最中ですが。
中国の東南部だと、緯度的には台湾や沖縄、鹿児島南沿岸部と同じ。
当時は温帯域に属しました。今では亜熱帯の地域ですけれど。

保守系の人は、中国・東南部の土器を捏造と考えていますが、
2012年の発見は、米国のチームとの共同研究だったんですよね。
今後、測定年代が引っ繰り返る可能性が、ゼロとは申しませんが、
現段階で全否定できる状況にもない。なにせ「東北アジア」なので。



縄文文明の支持者は、その裏付けとして「世界最古の土器」を提示します。
つまり、土器の出現が、文明の証拠になると考えているようなのですが。

基本的に、土器は定住化のサインなんですよ。定住化に伴って普及する。
移動生活では、家財として持ち歩くのが大変。重いし。落とせば割れるし。

東北アジアでの早い登場は、季節定住による利用と考えられています。


実際、日本でも全国的に土器が普及し出すのは、1万4500年ほど前で、
定住化の確たる証明となる、竪穴住居の出現時期と一致するそうです。




2022/05/22  不破 慈(曾祖母はアイヌ)

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ちなみに、最古の土偶は、中央ヨーロッパから出土しています。
土偶と言いますか、土製のヴィーナス像。ちゃんと焼成されたもの。
3万年前の品。チェコ南東部~オーストリアにかけてのパブロフ文化。

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[ 2022/05/22 13:16 ] アイヌ問題 -4.人類学、DNA | TB(0) | CM(0)

朝鮮半島にも残る縄文遺伝子:古代ゲノム研究

朝鮮半島・釜山郊外の島にある
獐項遺跡から出土した2体の人骨。


約6300年前に生きていた人物で、
現代韓国人より日本人と近縁でした。




科学2022年2月号、p134より
※「科学」2022年2月号、p134より(岩波書店)




ちょ~っと図が見難いと思うんで、必要な部分を拡大しますね(↓)

科学2022年2月号、p134、拡大図
※「科学」2022年2月号、p134より(岩波書店)、拡大図




左上に縄文人のグループがあります。
真ん中ぐらいに、現代日本人のグループ。
そして、右下には中国(北京)と、隣に南中国。

左上に行くほど縄文寄りで、右下に行くほど大陸寄りなんですが。
獐項(ジャンハン)遺跡の二人は、現代日本人に近い位置にいます。

翻って、現代韓国人。グループを形成できるほど解析数はありませんが、
現代日本人と中国(北京)の、ちょうど中間ぐらいに位置しますでしょ?

コレって、韓国人にも、縄文と共通する遺伝的要素があるということ。
実際、現代韓国人のゲノム中、5%程度が縄文人と共通するそうです。



これには、二通りのシナリオが考えられます。

①アフリカ⇒アジアへと移動してきた人類の、古い系統が、
 大陸を囲むように、列島周辺に残った(東ユーラシア基層集団

②九州北部と半島南部で交流があり、縄文時代に遺伝子が伝わった。



私は、両方だろうな、と思っています。

そうして、時代が進み、長江流域から水稲水田耕作民
大開拓時代(!)が始まると、農耕民のゲノムが東アジアに拡大

当然、列島よりも半島のほうが、縄文人と共通する遺伝要素は薄まります。


加えて、弥生時代の人骨を解析すると、①遺伝的に縄文人の「大友8号」、
②縄文・渡来、双方の遺伝的特徴を併せもつ「下本山2号・3号」等々、
多様性に富むことから、列島内で確実に混交が起きたと考えられます。

対馬海峡を挟んだ交流は、縄文時代から変わらず続いていたため、
半島側で混交する人々もいたでしょうが、半島から移住した人々が、
そのまま現代日本人の祖になったという、単純な図式は成り立ちません。



現在、解析されているのは半島南部沿岸から出土した古人骨だけで、
同時代の半島内陸部については、まだよく解っていないそうです。

古墳時代以降の渡来民は、現代韓国人に近かったと思われますが。
今後、解析数が増えれば、もっと詳細なシナリオも描けるでしょう。




2022/05/15  不破 慈(曾祖母はアイヌ)

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韓国人と縄文人の近縁性については、以前から言及されていました。
Y染色体ハプロ型のD系統と、ミトコンドリアDNAハプロ型のN9b。
パーセンテージとしては僅かですが、韓国の人々も保有しているんです。

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[ 2022/05/15 11:14 ] アイヌ問題 -4.人類学、DNA | TB(0) | CM(4)

縄文女性の顔、DNAで復元 ~北海道・船泊遺跡の縄文人

北海道の礼文島、船泊遺跡から出土した縄文人骨。
現代人に近い精度で、ゲノム情報が得られました。


日経サイエンス2021年8月号p39より

日経サイエンス2021年8月号p40より

※日経サイエンス2021年8月号p39&p40より



彼女は船泊23号と呼ばれます。
3500~3800年前頃に生きていた人物で、
時代的には、ちょうど縄文後期に当たります。

保存状態が極めて良く、現代人に近い精度で解析が可能でした。
そのデータを基に、復元されたのが冒頭の画像(復顔像)です。

実際にこのような顔をしていたのか、確認する術はありませんが。
現代人のゲノムで複顔を行うと、本人に酷似した像が仕上がります。
犯罪捜査に役立てられるのではないかと、研究が進んでいるんですよ。

その技術を用いて、縄文後期に生きた女性の復顔を行ったんですね。



実は、前記事でご紹介した、2019年のゲノム研究。
彼女(船泊23号)のデータを用いて解析されたんです。

 アイヌ7割、沖縄3割。本土日本1~2割:縄文遺伝子 (2022/04/17)
 http://fuwameg.blog.fc2.com/blog-entry-2260.html


さて、こういった反論が返されそうです(返されました)
 ・礼文島の縄文女性なら、アイヌと近縁で当たり前じゃないか!
 ・たった一個体のゲノムで、確定的なことが言えるのか?



残念ながら、船泊23号のデータが、現代人並に高い精度だっただけで、
他地域の縄文人骨との比較でも、似たような結果が出ているんです。

少なくとも7800年前までに、縄文人は、ほぼ均質化していたようです。


※抜粋
 これまでに現代人と同じ精度で全ゲノムが解析できた縄文人は船泊23号だけだが,それ以外にも福島県の三貫地(さんがんじ)貝塚,愛知県の伊川津(いかわづ)貝塚,佐賀県の東名(ひがしみょう)遺跡の縄文人骨のゲノムが解析されている。東名は7800年前の縄文早期,船泊は縄文後期,三貫地は縄文晩期の人骨で,最も新しい伊川津は年代的には弥生時代に入るが,ゲノムは完全に縄文人のものだった。これらの縄文人のゲノムは互いに非常によく似ていた。「縄文人は少なくとも7800年前までにほぼ均質化し,3000年前に渡来人がやってくるまでに,遺伝的には同質な集団が連続していたと考えられる」と神澤は話す。
【引用注:神澤秀明氏は国立科学博物館人類研究部研究員】
※日経サイエンス2021年8月号p43より



列島に初めて、現生人類が上陸したのが3万8000年前。
約2万年の時を経て、縄文時代が始まったのが1万6000年前。

多様なルートから流入した人々が、最初から均質な集団だったとは、
ちょっと考えにくい。ですが、交流する時間は充分にあったでしょう。

国立科学博物館、3万年前の航海徹底再現プロジェクト、リーフレットより

 対馬ルート   3万8000年前
 沖縄ルート   3万5000年前
 北海道ルート  2万5000年前




2022/04/24  不破 慈(曾祖母はアイヌ)

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2万年前にシベリアから南下したのが縄文人」とのデマがあります。
アイヌプロパガンダの一環です。始原の地は北海道と錯覚させたい。


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[ 2022/04/24 13:20 ] アイヌ問題 -4.人類学、DNA | TB(0) | CM(0)

アイヌ7割、沖縄3割。本土日本1~2割……縄文の遺伝子

アイヌ7割、沖縄3割。本土日本1~2割。
※日本人に受け継がれる縄文の遺伝子の割合




……過去記事でも軽く触れましたが。
改めて、人類学カテにアップしておきます。

2019年の研究(DNA解析)では、上記の通り、
現代日本人に受け継がれる縄文古来の共通遺伝子の割合が、
アイヌでは約7割、沖縄で3割。本土では1~2割と出ました。

なるほど、この割合を見れば、日本の人類学界における
弥生以降に置換に近い混血が起きたとの解釈にも納得です。



ただ、ここで注意すべきことが二点、あります。


先ず、一点目。
この研究で使われた現代アイヌのデータ(サンプル・試料)は、
1980年代の平取町二風谷で、当時の高齢層から採取されたものです。

現在の二風谷住人は、サンプル提供者の子・孫世代だそうですから。
縄文の遺伝子を7割も受け継ぐ人達は全員、鬼籍に入っています。

つまりは明治期、遅くとも大正年間に生まれた人達だったんです。
現代アイヌというよりは、近代アイヌとの理解が適切でしょう。



続いて、二点目。
現代アイヌとして用いられた36名分の試料中、3名は和人のものでした。

区別が付かないほど混血が進んだ3名だった、と考えることも出来ますが。
可能性として一番高いのは、「養い子」ではないかと、私自身は見ています。


斉藤成也著、核DNA解析でたどる日本人の源流、河出書房新社20171105

本格的なデータ解析が始まったのは2010年になってからだ。アイヌ人のDNAは、もともとミトコンドリアDNAの研究のためにあつめられたが、それから30年以上経過しており、SNPタイピングに使うことができたのは、36名のDNAだった。[p132]

ヤマト人が密集している位置にアイヌ人が3名、韓国人が密集している位置にヤマト人が1名存在しているが、これらの人は遺伝的にはそれぞれヤマト人と韓国人である。[p138]

※核DNA解析でたどる日本人の源流/斉藤成也/河出書房新社2017.11




アイヌは昔から、和人の子を貰って育てることがあったんですよ。

あるいは、「その3名の親が養い子」だったのかも知れません。
遺伝的には和人の養い子が、明治以降に和人と結婚すれば、
生まれる子供は代々、「遺伝的には和人」になります。





2022/04/17  不破 慈(曾祖母はアイヌ)

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近代生まれのアイヌ36名中、3名が和人とは、かなりの高率ですが。
遺伝的に和人のアイヌは、古くから存在しました。確実に、江戸時代にも。
私達が「DNA検査に意味ナシ」と主張するのは、こういった事情からです。

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[ 2022/04/17 11:48 ] アイヌ問題 -4.人類学、DNA | TB(0) | CM(0)

縄文人が弥生人に直接進化したとする、50年前の変形説

縄文人が列島内で小進化を遂げ、
弥生人になったとする“変形説”。

※つまり、渡来人の流入はなかったとする説
 

1950~1980年頃に流行し、
現在では否定されています。





ざっと説明しておきましょう。大きく分けて、
「縄文⇒弥生」の移行には、3つの説があります。

 置換説:縄文人が追いやられ、渡来人(弥生)に置き換わった。
 混血説:縄文人が渡来人と混血し、弥生人⇒現代日本人になった。
 変形説:縄文人が独自に小進化を遂げ、弥生人⇒現代日本人になった。


現在では、置換に近い混血が起きたと考えられています。
地域により濃淡はあるものの、混血説が主流ということ。





昨今、保守界隈で持て囃されている「変形説」ですが。
拡散の中心になっているのは、60代以上の高齢者では?

 『自分達が子供の頃に習ったことと違~う!
  渡来人との混血なんて、大陸・半島礼賛の自虐史観だ~!』



幼少期の刷り込みは、強力なので。
半世紀に及ぶ科学(解析)技術の進歩を、
受け入れられないのは仕方ないかも知れません。

しかしながら、日本の未来を担う若い世代に対し、
50年以上前の通説を売り込むことは、看過できません。




2022/04/14  不破 慈(曾祖母はアイヌ)

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欧米では、シーボルト以来200年、一貫して置換説が主流です。
だから、日本の先住民族アイヌというファンタジーが通用する。


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[ 2022/04/14 12:44 ] アイヌ問題 -4.人類学、DNA | TB(0) | CM(0)

アイヌ人骨収集、本当に「学問の暴力」だったか?

日本の学者による人骨資料集めは、
本当に「学問の暴力」だったのか?



東村岳史論文、アイヌの頭蓋骨写真報道が意味するもの  ※引用

発掘後児玉は千島アイヌたちから「『その骨格は祖先のものであるから全部返してくれ』という厳重な抗議」を受けた.「わたしは八方手を尽くしてみたがなんら効果がなく,涙をのんでこれを返さざるをえなくなった」.ところが,返還前に慰霊祭を行ったところ,「式が終ると酋長はわたしのところへ来て,あの骨格は全部北大に寄贈するから大切に保管されたいと涙ぐんでいわれた.このときの感激は一生忘れることができない.
※アイヌの頭蓋骨写真報道が意味するもの(p5)/東村岳史
https://www.gsid.nagoya-u.ac.jp/bpub/research/public/forum/43/01.pdf

フロイトを持ち出した人格功撃にご用心 (2020/11/09)
http://fuwameg.blog.fc2.com/blog-entry-2093.html




……上記論文の著者である東村岳史(名古屋大学)の目的は、
故・児玉作左衛門(こだま・さくざえもん)教授に、
性癖異常のレッテルを貼ることにありますが。 ※リンク先でご確認下さい。

引用されているエピソード自体は、有意義です。
拙宅でも、ご紹介させて頂きました。


現在、世界規模で先住民族への遺骨返還運動が起きています。
不当に発掘・持ち出された遺骨・遺品を、各部族へと返還する。
それ自体は、2007年の国連宣言に基づいた動きなのですが、
アメリカでは、1990年に、NAGPRAが成立しています。
※アメリカ先住民墳墓保護・返還法


つまり、20世紀も終わりに近付いてから、
そういった潮流が生まれてきたということ。

対して、冒頭で紹介した、児玉作左衛門教授と
千島アイヌのエピソードは、戦前のものです。


100年近く前から、歩み寄りで
人骨資料を集めていた学者がいたこと、
私たち日本人は、もっと誇りましょう。





……なお、清野謙次を始め、新しい墓の遺骸まで
勝手に掘り起こす学者が、いたことには、いたんですが。

清野は、お寺のお経典なんかも持ち出したんですよ。


どんなに格式のある神社仏閣が相手でも、
貴重な史料だと思うと、我慢できないんです。
手許に置きたくなる。盗癖があったんですね。

勿論、僧侶からの通報で発覚、清野はクビ。
当時の京大学長も、監督責任で辞任しました。




2021/11/12  不破 慈(曾祖母はアイヌ)

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日本に人類学が入ってきた当初は、欧米の手法をそのまま学びました。
ですので、初期に起きたトラブルは、致し方ない面もあると思います。
ですが、早くから改める動きは出ていたんです。そこを見て欲しい。

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[ 2021/11/12 11:39 ] アイヌ問題 -4.人類学、DNA | TB(0) | CM(0)
ふわふわでぇす!

ふわふわ

Author:ふわふわ
不破 慈(ふわめぐみ)

アスペルガー症候群(軽度の自閉症スペクトラム/神経発生発達障害の一系統)です。もともとは個人的なブログ(主に当事者研究やエッセイ発表の場)でした。

協会の不正を告発する砂澤陣さんの活動を知り、亡くなった父が、私をアイヌどころか北海道とも無関係に育てた理由が解りました。

父方の祖母は陸奥源氏、福島の母方は東北の蝦夷(安倍氏)。私自身は神奈川県横浜市で生まれ育ちました。


※最も解りやすいアイヌ問題
   ↓↓↓


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