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二番目の山羊 ~アイヌは先住民族に非ず

2008年の先住民決議は騙し討ち。2019年のアイヌ新法も不当です。 ※現在は、twitterもFBもやっていません。 【 pixiv:5770560 】

満州人の祖先:黒水靺鞨 …オホーツク人に非ず

黒水靺鞨 ≠ オホーツク文化人


黒水靺鞨渡来説というものがあります。

アムール川流域から海を渡って来た人々が、
オホーツク文化の担い手になったというもの。

40年ぐらい前までは、有力視されていました。




ですが、両者の間には、類似点より相違点が目立ちます。
何より靺鞨文化においては、製鉄技術が発達していました。

石器と骨角器を用いていたオホーツク文化人なのでしょうか?



新北海道の古代2続縄文・オホーツク文化、北海道新聞社2003  ※引用

 オホーツク文化の住居址は基本的に六角形であるが、靺鞨文化の住居址は正方形である。オホーツク文化の住居址では奥壁部にクマの頭骨を置いてある例がしばしば見出されるが、靺鞨文化の住居址にそのような類例はない。
 (略)
 墓制では両文化とも仰臥屈葬が多いという共通点はあるが、靺鞨文化には一度埋葬した墓を掘り起こして、供養の後に再び埋葬する再葬(または二次葬)の葬法が一般的である。靺鞨文化の墓には埋葬の際に遺体を白樺の樹皮で包み、その上で火を焚いて土をかぶせた被火葬もある。靺鞨文化の墓にはしばしばウマが殉葬されている。
オホーツク文化には再葬や被火葬の例はない。オホーツク文化の墓にウマの殉葬の例はなく、そもそもオホーツク文化の遺跡からウマの骨の出土例もない。

 (略)

 オホーツク文化の生業は主として沿海における漁労と海獣狩猟である。遺跡からはさまざまな種類の魚の骨が出土している。海棲哺乳動物ではアザラシ・オットセイ・アシカ・トド・クジラ・イルカなどの骨が多量に出土している。
 (略)
 靺鞨文化の生業は主として農耕である。遺跡からは炭化したコーリャンや、住居址の床面から出土した土器の内部に焦げたキビが見出された。靺鞨文化の遺跡にブタの骨が多いことは靺鞨が農耕民であったことを示している。

 (略)
また靺鞨文化では製鉄技術が発達しており、鉄器・鉄製品が製作され、石器や骨角器はわずかに見出されるに過ぎない。オホーツク文化の遺跡では製鉄の痕跡は見出されず、石器と骨角器の発達が特徴的である。


新北海道の古代2続縄文・オホーツク文化、p190下
 引用注:「同仁」は、中国側で発掘された遺跡から命名。後に「靺鞨=同仁」と判明。

※新北海道の古代2 続縄文・オホーツク文化(p190-191)
 編著:野村崇・宇田川洋/北海道新聞社2003.7.10
 【引用文・図は、菊池俊彦氏が担当した箇所より】





……両者は交易をしていたので。靺鞨の文化圏で製作された物品が、
同時代の、オホーツク文化人の遺跡から出土することもあります。

ですが。考古学では、動産と不動産を、同じようには扱いません。
土地に刻まれた痕跡(不動産)と違い、動産は持ち込むことができる。

また、交流がある以上、儀礼や慣習を取り入れることも、起こり得ます。



紀元前の大陸で、北方にいた狩猟採集民を「粛慎」と呼びました。
それに倣い、6世紀頃から日本と関わるようになった北方系の
海洋漁撈民を、「粛慎」と呼ぶようになったのですが。

これは、大陸と日本が、交流を持っていたことから発生した事象です。
あくまで、当時の証言として、文献史料に記述が遺されているということ。

対して、考古学は鑑識です。証言に引き摺られていては、判断ミスを犯します。




さてさて、紀元前の粛慎。無論、大陸の北方にいた人々のほうですけれど。
早くに農耕(園耕)を取り入れます。地域毎に、依存度は違ったようですが。

呼び方も、粛慎 ⇒ 挹婁 ⇒ 勿吉 ⇒ 靺鞨 と、時代によって変遷しました。


靺鞨は、隋・唐代の名称です。幾つもの部族に分かれていたそうですが。
後に、渤海を建国する人々や、金・清を建国する人々が登場しました。

特に、金王朝・清王朝を立てた人々が、黒水靺鞨の系譜に連なります。


 黒水靺鞨 ⇒ 女真(女直)⇒ 満州人


新北海道の古代2続縄文・オホーツク文化、p197

※新北海道の古代2 続縄文・オホーツク文化(p197)
 編著:野村崇・宇田川洋/北海道新聞社2003.7.10
 【引用図は、菊池俊彦氏が担当した箇所より】




黒水靺鞨の一部でも、オホーツク文化人……になった可能性は低いでしょう。
靺鞨文化が成立するよりも早く、樺太でオホーツク文化が成立していたので。


 オホーツク文化 : 3世紀~13世紀頃まで ※5~13世紀説あり
 靺 鞨 文 化 : 6世紀後半~8世紀頃まで ※7~10世紀説あり




2023/9/16  不破 慈(曾祖母がアイヌ)

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「黒水」……つまりは、黒竜江(アムール川)のことですね。
「清朝、父祖の地」と云うでしょ? そうやって覚えて下さい(^^)

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[ 2023/09/16 13:09 ] アイヌ問題 -4.DNA・人類学・考古学 | TB(0) | CM(2)

アイヌ時代は小氷期【補稿】年単位での古気候復元

最近は、年単位での
古気候復元が可能です。



中塚武著、気候適応の日本史、図11

※中塚武/気候適応の日本史 人新世をのりこえる視点(p92-93)
  吉川弘文館 歴史文化ライブラリー544/2022.3.1

中塚武、気候適応の日本史、吉川弘文館2022




上図は、古気候学がご専門の、中塚武先生(理学博士)の著書からです。
見開きページをスキャンしたので、見難いとは思いますが、ご了承下さい。

中部日本の森林で、樹木年輪を調査して得られた過去2600年の復元図です。

樹木年輪から、古気候を復元する研究は、海外でも行われて来ました。
ところがですね。日本の学者が、年単位の気温の変化に留まらず、
年単位の降水量の変化まで復元する技法を開発したんです(!)


正確には、植物が最も成長する、夏場の気温&降水量の変化ですけれど。
※年輪の繊維質(セルロース)を構成する成分(酸素や水素)の同位体比から算出



「NIPPON, CHA-CHA-CHA!」と踊り出したい気分を抑えて、記事本題。
以下は、冒頭のグラフの右サイドです(↓) ザッと流れを説明しますね。


中塚武著、気候適応の日本史、図11、右半分
※中塚武/気候適応の日本史 人新世をのりこえる視点(p92)
  吉川弘文館 歴史文化ライブラリー544/2022.3.1





800~1300年頃は中世温暖期です。900~1100年頃は特に暖かかった模様。
1100年前後だと、東北は平泉政権の時代。半ば独立国として存在しました。
北海道は擦文時代です。本州からの入植者も増え、園耕社会が成立します。

 北海道で農耕が行われた擦文時代:中世温暖期 (2023/07/22)
 http://fuwameg.blog.fc2.com/blog-entry-2334.html



ですが、以降は下がり始めますよね? 小氷期に突入したんです。
北海道は、狩猟採集メインの、アイヌ文化の時代を迎えました。


グラフをよく見ると、1200年前後にも一時的に下がっていますが。
この時期、源平合戦が行われましたね。奥州藤原氏も滅亡します。
これにより、本土日本が実質的に統一されました(日本の中世)。

以降は、鎌倉 ⇒ 室町 ⇒ 安土桃山と、戦乱の世が続きます。


1600年、関ヶ原で徳川軍が勝利すると、すぐに江戸時代。
1603年に幕府を開きました。日本の近世が始まるんですね。




……が。再度、グラフでご確認下さい。そこから、“寒さの底”を迎えます。
江戸時代は、飢饉が頻発しましたよね。特に、“三大飢饉”は有名ですけれど。

享保・天明・天保。うち、享保の飢饉(1732)は蝗害(イナゴ・ウンカ)。
西日本で大凶作となりました。天明・天保は冷害で、東北で甚大な被害


※下図の最上部でご確認下さい(↓)
中塚武著、気候適応の日本史、図15
※中塚武/気候適応の日本史 人新世をのりこえる視点(p150)
  吉川弘文館 歴史文化ライブラリー544/2022.3.1




天明の飢饉(1782-1787)
 各藩の記録によれば、天明の飢饉による東北北部の餓死者数は、弘前藩で10万2000人、八戸藩で3万105人、盛岡藩で4万850人とあり、仙台藩では餓死と疫病死を合わせて20万人以上であった。 [p235]

天保の飢饉(1833-1839)
 農作物の不作が連続して発生し、作柄をみると全国平均で、1833年が52.5%、1835年は57.2%、1836年が42.4%とおよそ半分に減少しており、奥州ではそれぞれ35%、47.2%、28%と大凶作となった。冷害は1838年まで続き、餓死者が大量に発生した。弘前藩では餓死(7万4860人)と疫病死(2万6000人)により、藩内人口の半分が死亡した。 [p242]


※田家康/気候文明史 世界を変えた8万年の攻防(p235,242)
 日本経済新聞出版社/2010.2.19 [漢数字⇒アラビア数字]

田家康、気候文明史、日本経済新聞出版社2010




……天明・天保と、北海道に近い東北での様子を、
気象予報士の田家康先生の著書からご紹介しましたが。
上記の通り、冷害の影響は、寒い北日本で、より甚大でした。

そんな時代に、狩猟採集民のアイヌが、北海道で農耕……???


否、チャレンジ精神は否定しません。事実、初歩的な園耕は行っていました。
もっと、レベルの高いことをしてみたかったのかも。和人のようになりたくて。


 アイヌ女性の畑仕事:園耕のお話 (2022/10/29)
 http://fuwameg.blog.fc2.com/blog-entry-2293.html
 アイヌ時代は小氷期:松前藩の禁農モデルについて (2023/08/19)
 http://fuwameg.blog.fc2.com/blog-entry-2336.html




2023/9/3  不破 慈(曾祖母がアイヌ)

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園耕民(狩猟+農耕)の強みは、いつでも農耕を切り捨てられる点にあります。
時々の気候条件に合わせて、狩猟採集オンリーの生活に、後戻りが可能なんです。

完全な農耕社会に移行すると、それが出来ません。餓死者が増える理由の一つです。



 名古屋大学大学院環境学研究科 地球環境科学専攻大気水圏科学系
  古気候学グループのサイト ⇒ https://pcl.has.env.nagoya-u.ac.jp

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[ 2023/09/03 14:55 ] アイヌ問題 -4.DNA・人類学・考古学 | TB(0) | CM(0)

アイヌ時代は小氷期:松前藩の禁農モデルについて

松前藩による「禁農モデル」という学説があります。
単純に、アイヌに農業を禁止したという主張ではなく。



アイヌが農業に挑戦するのを
禁止した、という内容です(ー。ー;





禁農モデル  深澤(1995)
アイヌ社会においての農耕文化は擦文文化期以後アイヌ社会内の欲求により常に進展していたと考えられるにもかかわらず、「意図的なイデオロギー」によってその動きが禁止されるという、人為的行為によって阻害された結果、実践的な折衝としてアイヌ社会内で再生産され、その現象が変容した文化的要素として認められるようになったと考える。これを禁農モデルと呼ぶ。[p11より]


 擦文からアイヌ ―農耕の縮小― 総合地球環境学研究所
  東北大学大学院 国際環境研究科 深澤百合子

 https://www.chikyu.ac.jp/neo-map/file/fukasawa-01.pdf




……詳細は、上記リンク先でご確認頂きたいのですが(↑)

要は、アイヌが農業をやりたがっているのに松前藩は認めなかった
苦労して手に入れた種子も取り上げられ、農具さえも渡して貰えない。
彼等のチャレンジ精神を流言飛語まで用いて潰した、といった内容です。

 ↓↓↓


1786(天明6)年 佐藤玄六朗の報告
『蝦夷地之儀是迄見分仕候趣申上候書付』

「古来より蝦夷地において穀類を作立候儀は法度の様に相成り」
「先年イシカリと申候所の川上にて、稲を作り相応に出来在候処其段松前え相聞、領主役人より申付候哉、又は商人共の仕業の候哉、籾、種子迄残らず取り上、右作仕候蝦夷ともえは、ツクナイを出す為候由の風聞等之有り」[p12より]
https://www.chikyu.ac.jp/neo-map/file/fukasawa-01.pdf




……さて、困りました。当時、気候はどんどん寒冷化していったので。
耕作地の縮小については、考古学&古気候学での反論も可能です。
※アイヌも初歩的な農耕(園耕)なら行っていました。


 中世温暖期(擦文)⇒ 小氷期(中世アイヌ → 近世アイヌ)



でも、「言った・言わない」「やった・やらない」の次元になると……?


事件の捜査に喩えますが。考古学や古気候学は、“鑑識”の役回りです。
一方の文献史学は、“当時の証言”について取り扱う分野なんですよ。

でも、私。文献史学は、ダメダメなんです(―。―;


そんなワケで、文献史学が得意な方に、ご協力をお願いしたいのです。
被告人席で、一方的に弾劾される松前藩の“弁護”を担って頂きたく。





とは云え、全くの丸投げも無責任と思います。
そこで、私なりに仮説を一件、立ててみました。


アイヌと松前藩は、交易を行っていましたが。

米などの農産物が、松前藩側の主要な交易品なら、
種子や苗、農法(道具・技術)の漏洩を防ぐのでは?




現代でも、隣国の無断栽培が問題視されていますが。
それと同じですよ。アイヌが和人の技術を欲したなら、
交渉の上、相応の対価を支払い、指導を仰ぐ必要がある。

勿論、当時のアイヌに、そんな道理は理解できません。
読み書き算盤、一切できなかった人達なんですから。

他の、もっと単純な理由だったかも知れませんが。




以上、文献史学のみならず、商取引に詳しい方の助力も必要です。

「松前藩の方針で」「農業を教えることを禁じている」とあったので。
和人から教わらない限り、アイヌに農業が無理だったことは理解できました。

 ↓↓↓


1857(安政4)年 『石狩日誌』
松浦武四郎
(1973年丸山道子訳)

「家のそばにはムニノカン(狸豆)、マーメ(いんげん豆)、ムンシロ(粟)、リテアママ(もち粟)、ヒヤハ(稗)などを作っているが、こういう農作業は女の仕事とされている。かれらはまだ鍬を持っていないので、まさかりの側面に木の柄をとりつけて鍬の代わりに使っているが、これは松前藩の方針で、かれらに農業を教えることを禁じているので、運上屋もアイヌには鍬を渡さないためである」[p13より]
https://www.chikyu.ac.jp/neo-map/file/fukasawa-01.pdf



2023/8/19  不破 慈(曾祖母がアイヌ) ※アップ当日、引用文二箇所追加&タイトル修正

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樺太では、「農耕をやると病気になる」といった噂が流れていたそうですが。
米先住民にも、母なる大地に爪や牙を立てることを忌避する部族がいました。
一種の信仰ですね。それが迷信であろうと、狩猟採集民の世界観としてある。

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[ 2023/08/19 13:04 ] アイヌ問題 -4.DNA・人類学・考古学 | TB(0) | CM(0)

北海道で農耕が行われた擦文時代:中世温暖期

北海道で農耕が行われていた擦文時代、
グリーンランドでも農耕が行われました。


古気候学では、中世温暖期と呼ばれます。




……もう少し、正確に申し上げますと。

擦文時代の北海道に成立していたのは、
農耕社会ではなく園耕社会でしたけれどね。

園耕民とは、狩猟民と農耕民の狭間にいる人達です。
狩猟・漁撈・採集と組み合わせて、農耕も取り入れている。


巷でよく言われる、「縄文農耕論」がそれなんですよ。
後晩期の縄文人は、農耕民ではないんです。園耕民でした。

本州以南では、比較的、早くに園耕社会が成立したということ。

水稲水田耕作が始まる弥生時代には、本格的な農耕社会へと移行し、
やがて幾つもの「クニ」が形成、古墳時代の国家成立へと繋がります。



一方、本州より寒い北海道では、縄文から続縄文時代へと突入しました。
寒冷な土地では、農耕(園耕)を行うメリットが、相対的に低いんです。


虫歯の研究からも、そういった地域的な事情の違いを見て取れます。

 本州縄文人 ……… 虫歯率:約15%(14.77%)
 北海道縄文人 …… 虫歯率:約 2%( 2.18%)



……本州では、タンパク質の3~6割を植物性食糧から得ていました。
対する北海道。植物性の食料は僅かです。温暖な縄文時代にも関わらず。

その傾向が、続縄文時代には更に強まります。虫歯率:0.5%(0.49%)
縄文時代より寒かったので。植物性食糧には、ますます頼れなくなった。




でも、擦文時代になると、北海道でも状況が変わったんです。
段々と暖かくなってきて。本州からの入植者も増えました。

実際、北海道でも古墳が造られるようになったでしょう?
あれは、東北北半部の末期古墳の系統を引くものです。


道内での築造は、本州の時代区分で、奈良~平安の頃ですね。
勘違いしている人もいますが、古墳時代の築造ではありません。

 北海道の古墳:8世紀以降の築造 (2022/09/03)
 http://fuwameg.blog.fc2.com/blog-entry-2285.html





……大分、趣味に走っているので、話を戻しますけれど。


中世温暖期だったからこそ、本州からの入植者も増え、
部分的に農耕を取り入れた園耕社会が成立しました。


しかし、擦文時代も末期になると、徐々に気候は寒冷化。
やがて小氷期に突入。再びの、狩猟採集がメインの社会。




寒冷化で、本州へと南下した人もいれば、道内に留まった人もいたでしょう。
何れにせよ、農耕の技術は失われます。労働に見合う収穫がないんだもの。

アイヌ女性も、お粗末な「園耕」なら行いましたが。そのくらいです。

 アイヌ女性の畑仕事:園耕のお話 (2022/10/29)
 http://fuwameg.blog.fc2.com/blog-entry-2293.html





……昨今、松前藩による禁鉄モデルに続き、禁農モデルが持て囃されていて。
お察しの通り、同じ学者が唱えています。深澤百合子という東北大学教授。

でも、北海道には、禁止するほどの製鉄・鍛錬技術がなかったのと同じで、
アイヌ文化期(≒小氷期)には、中世温暖期のような農耕が無理でした。

 アイヌに製鉄技術? 松前藩の禁鉄モデルは既に否定 (2023/03/26)
 http://fuwameg.blog.fc2.com/blog-entry-2316.html




2023/7/22  不破 慈(曾祖母がアイヌ)  ※下記リンク一件削除(8/1)

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古墳を築造した本州系の入植者に先駆け、オホーツク人も流入していました。
奥尻島には、6~7世紀に遡るオホーツク文化の青苗砂丘遺跡が存在します。
阿倍比羅夫との戦闘は有名ですが。後の持統天皇の御代、朝貢に参じました。

 8世紀、秋田県にもオホーツク文化人 (2022/08/13)
 http://fuwameg.blog.fc2.com/blog-entry-2282.html

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[ 2023/07/22 12:56 ] アイヌ問題 -4.DNA・人類学・考古学 | TB(0) | CM(0)

アイヌ遺骨問題:ゲノム解析拒否は世界的な潮流

ゲノム解析をしても、
先住性は否定できない。



国際社会で「先住民族」といったら、
弾圧・迫害を受け、土地・資源を奪われ、
文化や生活を破壊された「被害者」のこと。


簒奪・虐殺は、ゲノムに刻まれないでしょ?


未だに「800年前の強姦が証明された」と
拡散している愛国系のカルト信者もいるけど。






……要は、被害者だからこそ、賠償金を請求できるし
「自治区の制定」と称して、土地の返還も要求できる

 ↑↑↑
プロアイヌがやりたいのはコレ。
だから、「差別ガー、弾圧ガー」って騒ぐのよ。


日本語における、字義通りの「先住・後住」は争点じゃないの。
迫害はあったのか、略奪は起きたのか。つまり、事件性があるのか

欧米による弾圧は、字義通りの「先住」と「被害者」が一致しているけど。





Q.じゃあ何故、アイヌ人骨の解析を拒否するの?
A.それが世界的な潮流だから。



現在、世界規模で先住民族への遺骨返還運動が起きていて。
当然、ゲノム解析だって拒否されまくっているんだけど。

学者が勝手に盗んだ。盗品だから返せ」ってこと。

国際社会に「日本の先住民族アピール」をしたかったら、
その流れに、しっかり乗る必要がある。広報は大事だもん。


学者はあくまで、父祖の遺骨を盗んだ犯罪者であって、
自分達は、父祖の遺骨を盗まれた被害者という立ち位置。

「盗品」に対し、自由な研究を認めるなんておかしいでしょ?




それ以上に、駄々を捏ねることで、交渉材料としての価値を高める、
といった狙いもあるだろうね。というか、それが一番大きいと思うよ。

2014年に始まるラポロアイヌネイションの遺骨返還訴訟は有名だけど。
他にも、色々な手口で稼いでいるから。大事な、大事な父祖のお墓で。


砂澤陣「北海道が危ない!」20160913、発行:育鵬社、発売:扶桑社

先祖の墓も金に換えるプロ・アイヌ ※抜粋

 例えば旧門別町のプロ・アイヌは、同町北豊田地区にある1000坪ほどの土地に無数の調査棒を立て、その下に遺骨があると主張した。
 棒の下を掘ってみても実際に骨が出てきたのは18~22ヵ所、頭蓋骨は3~6個だったが、同町はプロ・アイヌの主張を受け入れ、580柱もの遺骨があると認定、移転改葬の事業費4400万円を計上したのだ。

※砂澤陣「北海道が危ない!」(p107-108)育鵬社2016.9

 アイヌ遺骨問題 ~先祖の墓を金に換える (2020/11/12)
 http://fuwameg.blog.fc2.com/blog-entry-2094.html






……そもそも、近代(明治~大正)生まれの
アイヌのゲノムなら、とっくに解析されている。

縄文人と共通する遺伝子が、7割を占めていたよ。


 アイヌ7割、沖縄3割。本土日本1~2割:縄文遺伝子 (2022/04/17)
 http://fuwameg.blog.fc2.com/blog-entry-2260.html
 縄文人が弥生人に直接進化? 50年前の変形説 (2022/04/14)
 http://fuwameg.blog.fc2.com/blog-entry-2259.html




2023/7/1  不破 慈(曾祖母がアイヌ)

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「先住民族」という言葉自体が、政治的に重い意味を持っているんだよ。
その先住民が縄文でもアイヌでも、「日本は簒奪国家」という図式になる。

 アイヌは民族ではないし、先住でもない (2023/02/26)
 http://fuwameg.blog.fc2.com/blog-entry-2312.html

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[ 2023/07/01 13:34 ] アイヌ問題 -4.DNA・人類学・考古学 | TB(0) | CM(0)

愛国カルト:土器を使わないから縄文の子孫じゃない?

アイヌは土器を作りませんでした。

故に、「縄文の子孫ではない」と
主張する人々がいます。




…ですが、オホーツク人は土器を作りました。

では、「オホーツク人が縄文の子孫だった」
ということで宜しいですか?(*^^*)






2022/03/09 「オホーツク文化―あなたの知らない古代」展示解説動画
https://www.youtube.com/playlist?list=PLotxNBsvVqxKeVr4DwvEPZ7nmeyjWotUx

特別展「オホーツク文化―あなたの知らない古代」の展示解説動画です。第14回は、オホーツク文化前期の土器と、オホーツク文化の成立についてです。主催:東京大学大学院人文社会系研究科・同附属北海文化研究常呂実習施設、横浜ユーラシア文化館、大阪府立近つ飛鳥博物館 会期:2021年年10月16日~12月26日(横浜ユーラシア文化館)、2022年1月15日~3月13日(大阪府立近つ飛鳥博物館)





……ご存知のように、アイヌは土器を作りませんでした。
正確には、放棄したんです。初期の頃はまだ作っていましたが。


交易で、和人から鉄鍋を入手するようになったからですよ。


アイヌは移動する生活でした。拠点はありましたけれど。
鉄鍋なら、土器や土鍋と違って、持ち運びが楽でしょ?(^^)

背伸びをしてでも、メイド・イン・ジャパンの鉄鍋を欲しがって。
アイヌから見れば、先進地域でしたし。色々な物を珍重したんですよ♪


 近世アイヌは土器を使わない:和人社会から鉄鍋を入手 (2022/06/05)
 http://fuwameg.blog.fc2.com/blog-entry-2270.html






『アイヌは土器を使わない。だから縄文の子孫ではない!』

……これまた、カルト系の愛国団体が中心になり、拡散しています。
ですが、冒頭で示したように、簡単に崩せる主張なのです。



そもそも、土器は世界中で作られていました。
縄文オリジナルでも、列島オリジナルでも何でもない。


なぜ、縄文の末裔であることの証明に使えると、錯覚できたの?


 世界最古級の土器、東北アジア全域に点在 (2022/05/22)
 http://fuwameg.blog.fc2.com/blog-entry-2268.html




2023/6/25  不破 慈(曾祖母がアイヌ)

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考古学の本をきちんと読めば、以下のように書かれています(↓)
アイヌは土器を作るのを止めたが、生活用品に文様を刻む文化は残った

本州以南、弥生以降の土器は、表面がのっぺりとしているでしょう?
農耕社会と狩猟社会で、別々の要素を受け継いでいくことになりました。

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[ 2023/06/25 11:57 ] アイヌ問題 -4.DNA・人類学・考古学 | TB(0) | CM(0)

古代日本:創作された3つの元号 ~事実史と記憶史

古代日本の元号。飛鳥時代には、
大化・白雉・朱鳥・大宝・慶雲・和銅の
計6つが制定されたと伝えられています。


ですが、大化・白雉・朱鳥に関しては、
出土した木簡での確認が取れないのです。




史跡で読む日本の歴史8 アジアの中の日本、吉川弘文館20100810  ※引用、漢数字⇒アラビア数字

 藤原宮跡(特別史跡)および福岡市元岡遺跡から、大宝年号(701―)を記した木簡が出土している。大宝年号はこれまでに元年(3点)・二年(8点)・三年(3点)が見つかっていて、諸国官衙が日本独自年号の使用を徹底したことがわかる。大宝以前の年号とされる大化、白雉、朱鳥年号については、日本年号を記した木簡は出土していない。該当念の木簡は何点も出土しているが、干支記載のみであった。おそらく今後も大化・白雉・朱鳥年号木簡の出土はないだろう。日本が独自の年号を使用したのは事実上大宝以後であり、大宝以前には飛鳥浄御原朝(天武・持統朝)での地方機関は、おそらくは中央も含めて、中国年号を使用することがあった。高麗・朝鮮や琉球は、のちにも独自の年号は持ちえず、中国年号を奉じ続けたけれど、大宝律令以前の日本も同様だった。

※史跡で読む日本の歴史8「アジアの中の日本」(p3-4)
  編者:服部英雄/吉川弘文館2010.8.10






……ここで皆さま、「大化・白雉・朱鳥は創作なの?!」と、
肩を落としてしまうかも知れませんが。ちょっと待って下さい。

考古学の世界には、事実史記憶史という考え方があるんですよ♪



この場合、事実史を構築するための材料として、以下の状況があります。

 ①大化・白雉・朱鳥の年号を記した出土物が存在しない。
 ②該当する年代の木簡には、干支のみが記載されている。
 ③中国の年号が記された刀剣などは見つかっている。
  ※中国産or日本産の論争アリ




そこから考えるに、大化・白雉・朱鳥は、確かに後年の創作でしょう。
でも、創作・捏造であっても、記憶史の観点で見た場合は意味を持ちます。

その「記憶」が事実に反するとして。何故、そのように伝えられてきたのか。


人間は事実誤認もしますから。単なる勘違いが伝わった場合もあるでしょう。
でも、この場合は何か目的がありそう。目的があったとして、その意図は?
当時の人々は、何を考えていたのでしょう。世界観は? 心象風景は?


それを踏まえた時。創作された3つの元号に、私は気概を感じるのです。
当時はまだ小国だった日本が、中華皇帝の軛から逃れようとしました。

「超大国だろうが何だろうが、必ず渡り合えるようになってやる!」



遠い古代に、日本だけが現状維持に甘んじなかったということですよ。

有色人種≒奴隷だった時代も、白人支配に立ち向かったのは日本でした。
日本人が突破口を開いたんです。ご存知の通り、世界はひっくり返ります。


勿論、今の時代に、後追いで元号を創作したら、大問題になりますが(^p^;




何が記憶史になるのかを知るためにも、事実史の探求は大事です。
事実史と記憶史が一致する場合もありますし、この二つは両輪なんです。

古代に創作された3つの元号が、日本人の魂について教えてくれています。




2023/5/1  不破 慈(曾祖母がアイヌ)

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大仙陵古墳(伝仁徳天皇陵)の論争も、事実史を明らかにしようとの試みです。
息子の允恭天皇の陵墓では? との提起でした。「反日だ!」は言い掛りです。
リアルタイムでの記録がない時代の陵墓は、伝承を基に比定されたので。

ちなみに。考古学では、継体天皇の真陵が今城塚古墳だと考えられています。
史跡公園として整備され、市民の憩いの場になっていますよ。見学してみては?

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[ 2023/05/01 19:08 ] アイヌ問題 -4.DNA・人類学・考古学 | TB(0) | CM(0)

バヌアツの縄文土器:土器は本物でしたが…

1996年、読売新聞が夕刊で報じた
南太平洋の縄文土器
バヌアツの縄文土器
 
カルト系の愛国団体が持て囃しています。
「縄文人が海を渡って移住した証拠だ」と。

 
 
……しかしながら、使用された粘土のみならず、
表面に付着した土粒子まで日本のものでした。


本当にバヌアツから出土した縄文土器なら、
バヌアツの土粒子が付着している筈では?





以下、日本の考古学リソースのデジタル化様からご紹介します。
※面倒でしたら、太字の箇所にだけ目を通して下さい。
 ↓↓↓


 2000年11月5日に旧石器捏造が発覚した後の、2001年2月14日読売新聞(大阪版・夕刊)に「日本からの寄贈物...」という記事が載った。真相は以下のようなものだった。

 1964年2月、慶応大学考古学教室を訪問したパリ人類博物館(Musée de l'Homme)の洞窟壁画専門家アンリ・ロート氏に、円筒下層式土器片10数点がプレゼントされた(氏は縄文土器に興味を持っていた…そんな氏に円筒下層式がプレゼントされたのは、いかにも縄文的な縄文土器だったからではなかろうか)。ロート氏はそれらを人類博物館に持ち帰ったと考えられる。同館では日本とバヌアツの考古資料は、同じ太平洋地域に区分されていた。1972年になって、同館に所属していたジョゼ・ガランジェ氏が、バヌアツでの現地調査を元に博士論文を書いた。そこでバヌアツ・エファテ島(Efate)メレ平野のヤムイモ畑表採資料が報告された中に、縄文土器片が含まれていた。状況的にみて、人類博物館を媒介として資料の混在が起こってしまったと考えられる。
(略)
結局、土器の寄贈から37年を経て、慶応大学関係者(寄贈者)の証言が公になり、真相が明かされた(話自体は1999年の某懇親会で出たものらしい)。アンリ・ロート氏の証言も聞いてみたい気がするが、すでに故人であり、そのすべはない。ちなみに土器表面に付着した土粒子は、バヌアツのものではなく、日本の土だったようだ。

※全文(↓)
日本の考古学リソースのデジタル化様のページより

http://www.amy.hi-ho.ne.jp/mizuy/zenki/vanuatu.htm





……要は、管理の甘さが招いた勘違いだったのですが。



正直、迷惑しております。
パリ人類博物館にではありません。


可能性を追求するのが科学とばかりに、現実を無視する活動家が、
同じ口で「アイヌは日本の先住民族ではない」と主張しているので。

笑われるだけなんですよ。「また適当なことを言っているわね」、と。



拙ブログでは、アイヌ問題には直接関係がない人類学情報も扱います。
「子孫だけは、真面なことを言っている」という状況を作りたいんです。




2023/4/27  不破 慈(曾祖母はアイヌ)

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学歴のある人・頭の良い人でも、カルト情報には引っ掛かります。
理由は簡単で、自分の世界観にとって都合の好い情報だからですよ。
誘惑に抗った上で、情報を精査できるか否かが、分かれ目になります。

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[ 2023/04/27 11:58 ] アイヌ問題 -4.DNA・人類学・考古学 | TB(0) | CM(0)

狩猟採集民は平等でも平和でもなかった

アイヌは平等でも平和でもなかった。
 
 アイヌについて少し学んだ人なら、
 彼等が嘘を吐いていることが判ります。


 実際、酋長は数十人の妾を囲っていたし、
 部族間抗争も激しかったですからね。



ただ、どこも事情は似たようなもの。
狩猟採集社会は平等で平和とか、幻想。





……さて、先ずは平等社会か否かについてです。


リチャード・ランガム著、依田卓巳訳、善と悪のパラドックス、NTT出版2020  ※漢数字⇒アラビア数字
 狩猟採集民がぞっとする実例を提供している。男女のあいだで利害の対立が生じた場合、道徳規範は男を有利に扱い、女を犠牲にするのがふつうだ。オーストラリアじゅうの狩猟採集民の男は女を政略的な手駒として利用していた。特別な儀式では既婚女性が複数の男性と性交を求められることもあった。訪問客の夜の相手をさせられたり、借金の帳消しや和解のために夫から喧嘩相手に肉体を貸し出されたりすることも、性的な使命を帯びて危険な状況下に送り出されることもあった。潜在的な攻撃者たちが集団に近づいてくると、ひとつの対応策として、歓迎のために女たちが送りこまれる。送られた相手は、攻撃を控えるつもりなら女性の使者たちと性交渉を持ち、平和な意図を伝える。そうでなければ、女性を送り返して攻撃する。ふたつの部族間の和平交渉の最終段階は、かならずと言っていいほど妻の交換をともない、明らかに妻たちは強制的な交わりを楽しんでいなかった。人類学者A・P・エルキンの1938年の報告によれば、オーストラリアの先住民の女性は儀式に駆り出される恐怖におびえながら生きていた。そうした文化において、これらはすべてふつうの男性の「道徳的活動」なのだ。男たちは互いに向社会的にふるまう一方で、妻や女性の親族を利用していた。

※善と悪のパラドックス ヒトの進化と<自己家畜化>の歴史[p268]
 リチャード・ランガム著、依田卓巳訳/NTT出版2020.10.22






……他にも、女人禁制の儀式を盗み見て、罰として強姦・殺害されるとか。
でも、男子禁制の儀式に男性が乱入しても、お咎めはナシなんですよね。

この辺は純粋に、身体的能力(腕力)の差が根底にあると思われます。
つまり、実際に処罰(刑罰?)を実行する力があるか、ないかです。


昨今の、トランス女性の女子スポーツへの乱入を見れば判りますが。
いくらトップアスリートとは云え、女性では歯が立ちませんから。

狩猟採集民の社会では、性による分業が明確であり、不可侵です。
男チームと女チームに分かれて結束すれば、男社会になるのは必然。





次。平和な社会だったか否かですね。再度引用します。


※漢数字⇒アラビア数字
 世界のほかの地域の証拠も、同じ結論を指し示している。北アメリカ大陸北西海岸のクワキウトル族や、ニューギニアのアスマット族のような複合的な狩猟採集民は、小船を使って略奪目的の奇襲をかけ、戦利品として頭部や頭皮を持ち帰り、村を破壊したり、奴隷を捕らえたりした。ブラジルのムンドゥルク族や、ベネズエラのヤノマミ族のような焼き畑式農耕を営む人々は、地元の村で計画を練り、数時間から数日歩いて無防備な被害者をひとりかふたり殺し、できれば自衛の必要もなく逃走していた。

※善と悪のパラドックス ヒトの進化と<自己家畜化>の歴史[p312]
 リチャード・ランガム著、依田卓巳訳/NTT出版2020.10.22






……あらら? でも、私達は以下のように学んで来ませんでしたか?
『人類が戦争を始めたのも、格差が生じたのも農耕社会になってから

その疑問に対する答えも、同書に記してありました(↓)


※漢数字⇒アラビア数字
 狩猟採集民のあいだで起きる武力衝突の頻度は、その事情や死亡率と同様に、大いに議論されてきた。農業が始まるまで、戦闘や「本格的な戦争」はめったになかったと考える学派もある。その見解の支持者は、移動生活を送る狩猟採集民は太古の昔から集団でほとんど争わなかったが、やがて農耕民と衝突するようになり、自衛せざるをえなくなったと主張する。農業革命以前は、集団同士が対立してもどちらか一方が別の場所へ移動すればよかったので、戦う必要がなかったというわけだ。こうした主張の裏に、明らかに政治的な動機が見えることもある。たとえば、人類学者のダグラス・フライはこう記す。「戦争の災禍を終わらせるために人類学が果たすべき重要で包括的な貢献のひとつは、戦争が人間の避けがたい自然の本性ではないと示すことにある」

※善と悪のパラドックス ヒトの進化と<自己家畜化>の歴史[p309-310]
 リチャード・ランガム著、依田卓巳訳/NTT出版2020.10.22






……本質から目を逸らしたところで、戦争はなくならないし、
生物学的な女性の安全が確保されることもないでしょう。

夢や理想を追う人類学から、現実社会と向き合う人類学へ。
他の分野も同じです。学問の世界は、転換点を迎えています。




2023/4/2  不破 慈(曾祖母はアイヌ)

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政治は腕力ではないので、有能な女性には勿論、出世して欲しいですが。
殴る男性ではなく、女性を護る男性が活躍することで、社会は安定します。
見極めた上で、男を立てるんです。賢い大和撫子の、古来よりの知恵です。

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[ 2023/04/02 11:34 ] アイヌ問題 -4.DNA・人類学・考古学 | TB(0) | CM(0)

アイヌに製鉄技術? 松前藩の禁鉄モデルは既に否定

アイヌ……というより、
北海道の歴史を知らない人は
ミスリードされるかも(°_°;



※以下、資料として全文。面倒なら読み飛ばして下さい(↓)


2023.03.20 苫小牧民報
アイヌの伝統マキリを自作 飯島さん
たたら製鉄法で 虎杖浜の砂鉄と木炭使用 白老


白老町の白老民族芸能保存会理事の飯島宏之さん(40)=町竹浦=は、町内の砂鉄と木炭を使い、昔ながらの製鉄法でアイヌ民族伝統の小刀(マキリ)を作ることに取り組んでいる。夏までに3本を製作する考えで、古代製鉄の伝承活動を続ける「室蘭・登別たたらの会」代表、石崎勝男さん(78)=登別市緑町=の協力を得て作業に力を注いでいる。

 マキリは、アイヌ民族が宗教儀礼に用いる木製祭具イナウを作る時などに使う神聖な祭具。

 飯島さんは「地元の素材を使い、自分で鍛錬して作ったもので祈りをささげたい」との思いを秘めていた。町虎杖浜地区の砂浜では砂鉄が採れることから、この砂鉄を町内産の木材で作った木炭を燃やした熱で製鉄し、マキリを作る構想を抱いていた。

 これを知人のドローンカメラマン瀧谷栄さん(56)=白老町竹浦=が知り、5年ほど付き合いのある石崎さんを昨年12月上旬に紹介。飯島さんの思いに強く胸を打たれた石崎さんが、協力を買って出た。

 石崎さんの手掛けるたたら製鉄は、原料の砂鉄を木炭を燃やして製錬し、鉄や鋼(はがね)にする1000年以上前からの伝統的製鉄法。粘土製の炉で木炭を燃やし、砂鉄から鉄塊である鉧(けら)を作り、これを熱してはたたき、折り重ねては鍛えることを繰り返し、1本の刀に仕上げていく。

 飯島さんは年明けから石崎さんの自宅にある工房に定期的に通うようになり、製鉄技術を磨いている。春が近づく工房には、鉄槌を振り下ろすたびに火の粉が舞う緊張感に包まれながらも、鉄を打つキーンという高い音と男たちの朗らかな掛け声が響く。

 飯島さんは「お金で買ったマキリでカムイ(神)にささげるイナウを削りたくない」と胸の内を語る。鉄の打ち方やタイミングを指導する石崎さんは「白老産の木炭は火力が安定している。『地元の素材を使い、伝統製法で作りたい』という気持ちがうれしい。応援してやりたい」と目を細める。

 2人をつなげた瀧谷さんは、鉄を打つ飯島さんの姿を見守りながら「石崎さんが『一緒にやろう』と言ってくれてうれしかった。工房で学んだことが白老での技術継承にもつながれば」と話す。

 マキリは完成後、仙台藩白老元陣屋資料館で8月11日に開かれるイベント「陣屋の日」でお披露目される予定。
https://hokkaido-nl.jp/article/28692






……記事冒頭に、こう書かれているけれど。

>昔ながらの製鉄法でアイヌ民族伝統の小刀(マキリ)を


予備知識がない人は、アイヌが製鉄の技術を
持っていたのかと錯覚して、読み進めてしまうかも。

しかしながら、考古学的に得られる所見はこうです(↓)



東京大学大学院人文社会系研究科・文学部 2008年度
北海道における鉄文化の考古学的研究
-鉄ならびに鉄器の生産と普及を中心として-
 笹田 朋孝

※一部を抜粋
北海道では製鉄と鋳造は行われておらず、精錬と精錬鍛冶は時期・地域が限られていることが明らかとなった。換言すれば、北海道における鉄の技術とは鍛冶の技術である。その中でも鍛錬鍛冶工程が中心であった。そのため、高い鍛冶技術を必要とする鉄器(刀剣や鉄斧など)は、オホーツク文化・擦文文化・アイヌ文化では生産できなかった。本州以南の鍛冶との技術差は埋まることが無く、最終的にアイヌの鍛冶は和人の鍛冶によって駆逐されたと考えた。近世後半の和人の鍛冶の普及を考えれば、松前藩によりアイヌの鍛冶活動が禁止されたとする深沢百合子の「禁鉄」モデル(深澤1989)を敢えて設定する必要がないことを指摘した。

※笹田朋孝氏(現・愛媛大学准教授)の論文概要、全文(↓)
https://www.l.u-tokyo.ac.jp/postgraduate/database/2008/624.html






……つまり、北海道には製鉄技術が存在しなかったのよ。
アイヌか擦文か、オホーツクかに関係なく、技術自体がなかった。

ただ、製鉄・鋳造された製品を、本州以南から手に入れて、
鍛錬する職人はいた。壊れた製品を補修できないと困るでしょ?

それも、あくまで一時的、地域限定のことだったみたいだけれど。


もう一つ。「アイヌの鍛冶は和人の鍛冶によって駆逐」と読むと、
恐ろしい想像をするかも知れないけど。技術力で敵わなかっただけ。

一頃は、「松前藩が禁止した~、弾圧だ~」って騒いでいたんだけど。




そういった予備知識を頭に入れた上で、記事本文をもう一回読むと。


①飯島宏之氏という個人が、
②小刀を製鉄段階から自作したいと考え、
③石崎勝男氏という技術者に教えを乞うた。



……という流れだと判る。




「室蘭・登別たたらの会」代表の、石崎勝男氏。
元高炉マンだそうで。日本の伝統技法である「たたら製鉄」を、
後世に伝えるため、室蘭市を拠点に活動なさっている方みたいです。

日本の伝統を護ろうと活動する、数少ない職人さんの一人なんですね。


アイヌ利権に対抗することは大事だし、学術的反論も大事だけれど。
発信の仕方を工夫しないと、日本に必要な人まで傷付けてしまいます。





2023/3/26  不破 慈(曾祖母はアイヌ)  ※アップ当日、タイトル修正

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笹田朋孝氏(現・愛媛大学准教授)は、以下の記事でも紹介しました(↓)
 近世アイヌは土器を使わない:和人社会から鉄鍋を入手 (2022/06/05)
 http://fuwameg.blog.fc2.com/blog-entry-2270.html

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[ 2023/03/26 12:52 ] アイヌ問題 -4.DNA・人類学・考古学 | TB(0) | CM(0)
ふわふわでぇす!

ふわふわ

Author:ふわふわ
不破 慈(ふわめぐみ)

アスペルガー症候群(軽度の自閉症スペクトラム/神経発生発達障害の一系統)です。もともとは個人的なブログ(主に当事者研究やエッセイ発表の場)でした。

協会の不正を告発する砂澤陣さんの活動を知り、亡くなった父が、私をアイヌどころか北海道とも無関係に育てた理由が解りました。

父方の祖母は陸奥源氏、福島の母方は東北の蝦夷(安倍氏)。私自身は神奈川県横浜市で生まれ育ちました。


※最も解りやすいアイヌ問題
   ↓↓↓


 ◆アイヌ狂歌シリーズ


◆先住民族とは
◆在ヌ論について
◆北方領土について

◆強姦説について
◆的場光昭について
◆チャンネル桜について

◆古谷経衡について
◆篠原常一郎について
◆小林よしのりについて①
◆小林よしのりについて②


◆杉田水脈議員の発言

◆禁鉄モデルについて
◆禁農モデルについて

◆アイヌの盗作活動


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