擦文とオホーツク、最初の融合 ~トビニタイ文化~私は北海道へ飛ぶことが出来ませんので。
本記事はあくまで、「紹介」のレベルに留まりますこと、ご了承下さい。
ウィキの内容で(一般的な知識としては)問題なさそうです。
以下、転載です。読み易いよう、改行を加えます。
トビニタイ文化 出典:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』トビニタイ文化(トビニタイぶんか)は、9世紀ごろから13世紀ごろにかけて、
北海道の
道東地域および国後島付近に存在した文化様式の名称である。
1960年に東京大学の調査隊が羅臼町飛仁帯(とびにたい)で
発見した出土物が名称の由来である。
解説トビニタイ文化の直接の
源流はオホーツク文化である。
オホーツク文化に属する人々は以前から
北海道に南下していたが、
7世紀から8世紀にかけては道北・道東に広く進出していた。
その後、9世紀になって擦文文化に属する人々が道北に進出すると、
道東地域のオホーツク文化圏は中心地である樺太から切り離されてしまった。
その後この地域のオホーツク文化は擦文文化の影響を強く受けるようになり、
独自の文化様式に移行していった。
これが現在ではトビニタイ文化と呼ばれる文化様式である。
トビニタイ文化はその後、
擦文文化に同化し、13世紀初め頃には姿を消した。
熊の崇拝斜里町のウトロ地区入口にある、
トビニタイ文化期のチャシコツ岬下B遺跡から
2005年、
ヒグマを祭祀に用いた痕跡と思われるヒグマの骨が発見された。
これにより、擦文文化には見られなかった一方で
オホーツク文化には存在した熊崇拝は、トビニタイ文化を経由して
アイヌ文化にもたらされたのではないかとの見方も浮上している。
(引用ここまで、改行を加えました)https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%88%E3%83%93%E3%83%8B%E3%82%BF%E3%82%A4%E6%96%87%E5%8C%96