平安時代の行政区分を見ると、
北海道(蝦夷地)がありません。では、北海道は外国だったのか?
それも違います。
北海道に「国」はなかったので。
※境界の日本史(p136-137)/森先一貴・近江俊秀/朝日選書983/2019.4.25
……本の見開きページをスキャンしてアップしました。
検索すれば、ウィキなどで綺麗な画像がヒットしますから、
地図の詳細は、そちらでご確認頂ければと思います(_ _)
さて、上図は律令制に基いた行政区分、
令制国(りょうせいこく)です。
飛鳥・奈良の時代に整備され、なんと明治初期まで使われ続けました。
所謂、
五畿七道というヤツですね。そして、戊辰戦争の後に、
蝦夷地が「北海道」と改称され、
五畿八道になりました。
正式な仲間入りとしては遅かったものの、北海「道」とは、
日本国の、それも
飛鳥時代からの伝統に則った命名なんです。
機内(大和・山城・摂津・河内・和泉)
東海道・東山道・北陸道・山陽道・山陰道・南海道・西海道
北海道
←1869(明治2)新設(正式に仲間入り)じゃあ、それまで北海道は外国だったのかというと、全然違います。
現代は(南極以外)、ほぼ全ての土地が、何処かの国に帰属していて、
国境が細かく定められているため、感覚的に掴めないかも知れませんが。
古い時代は、必ずしも、隣国が隣り合っていたワケではないんですよ。
空白の部分というか、遊びの部分というか。境界が面のように存在して、
「あちら」と「こちら」を隔てていた。
緩衝地帯が広かったってことかな。
勿論、緩衝地帯・地域であっても、勢力圏や影響圏というものはありました。
北海道は、ずっと日本の勢力圏だったでしょう? アイヌはNationじゃない。
当時の国際情勢(ロシアの南下)を考えても、重要な手続きだったと思います。
東洋式の、
旧来の統治形態では、通用しなくなる時代が来てしまったんです。
さて、北海道。平安時代なら、まだアイヌは成立していませんね。
道北にはオホーツク文化が広がり、道央を中心として擦文文化が栄え。
道南部には当然、和人も住んでいた。というか、大規模に混住していた。
現代人の感覚を、そのまま当時に当て嵌めてはいけないんですよ。
2022/08/27 不破 慈(曾祖母はアイヌ)

粛慎と呼ばれたオホーツク文化人は、日本の天皇に朝貢していました。
古くは、
「本国」と「服属する周辺部族」という統治形態だったんです。
服属した以上は臣下。その縁があり、子孫は今、日本国臣民です(^^)
アイヌとして成立する500年前から天皇の臣下 (2020/08/01) http://fuwameg.blog.fc2.com/blog-entry-2070.html 8世紀、秋田県にもオホーツク文化人 (2022/08/13) http://fuwameg.blog.fc2.com/blog-entry-2282.html