北海道で農耕が行われていた擦文時代、
グリーンランドでも農耕が行われました。古気候学では、中世温暖期と呼ばれます。……もう少し、正確に申し上げますと。
擦文時代の北海道に成立していたのは、
農耕社会ではなく
園耕社会でしたけれどね。
園耕民とは、狩猟民と農耕民の狭間にいる人達です。
狩猟・漁撈・採集と組み合わせて、農耕も取り入れている。
巷でよく言われる、「縄文農耕論」がそれなんですよ。
後晩期の縄文人は、農耕民ではないんです。園耕民でした。
本州以南では、比較的、早くに園耕社会が成立したということ。
水稲水田耕作が始まる弥生時代には、本格的な農耕社会へと移行し、
やがて幾つもの「クニ」が形成、古墳時代の国家成立へと繋がります。
一方、
本州より寒い北海道では、縄文から続縄文時代へと突入しました。
寒冷な土地では、農耕(園耕)を行うメリットが、相対的に低いんです。
虫歯の研究からも、そういった地域的な事情の違いを見て取れます。
本州縄文人 ……… 虫歯率:約15%(14.77%)
北海道縄文人 …… 虫歯率:約 2%( 2.18%)……本州では、タンパク質の3~6割を植物性食糧から得ていました。
対する北海道。植物性の食料は僅かです。温暖な縄文時代にも関わらず。
その傾向が、続縄文時代には更に強まります。
虫歯率:0.5%(0.49%)縄文時代より寒かったので。植物性食糧には、ますます頼れなくなった。
でも、擦文時代になると、北海道でも状況が変わったんです。
段々と暖かくなってきて。
本州からの入植者も増えました。
実際、
北海道でも古墳が造られるようになったでしょう?
あれは、
東北北半部の末期古墳の系統を引くものです。
道内での築造は、本州の時代区分で、奈良~平安の頃ですね。
勘違いしている人もいますが、古墳時代の築造ではありません。
北海道の古墳:8世紀以降の築造 (2022/09/03) http://fuwameg.blog.fc2.com/blog-entry-2285.html……大分、趣味に走っているので、話を戻しますけれど。
中世温暖期だったからこそ、本州からの入植者も増え、
部分的に農耕を取り入れた園耕社会が成立しました。しかし、擦文時代も末期になると、徐々に気候は寒冷化。
やがて小氷期に突入。再びの、狩猟採集がメインの社会。寒冷化で、本州へと南下した人もいれば、道内に留まった人もいたでしょう。
何れにせよ、農耕の技術は失われます。労働に見合う収穫がないんだもの。
アイヌ女性も、お粗末な「園耕」なら行いましたが。そのくらいです。
アイヌ女性の畑仕事:園耕のお話 (2022/10/29) http://fuwameg.blog.fc2.com/blog-entry-2293.html……昨今、松前藩による禁鉄モデルに続き、
禁農モデルが持て囃されていて。
お察しの通り、同じ学者が唱えています。深澤百合子という東北大学教授。
でも、北海道には、禁止するほどの製鉄・鍛錬技術がなかったのと同じで、
アイヌ文化期(≒小氷期)には、中世温暖期のような農耕が無理でした。 アイヌに製鉄技術? 松前藩の禁鉄モデルは既に否定 (2023/03/26) http://fuwameg.blog.fc2.com/blog-entry-2316.html2023/7/22 不破 慈(曾祖母がアイヌ)
※下記リンク一件削除(8/1)

古墳を築造した本州系の入植者に先駆け、オホーツク人も流入していました。
奥尻島には、6~7世紀に遡るオホーツク文化の青苗砂丘遺跡が存在します。阿倍比羅夫との戦闘は有名ですが。後の持統天皇の御代、朝貢に参じました。
8世紀、秋田県にもオホーツク文化人 (2022/08/13) http://fuwameg.blog.fc2.com/blog-entry-2282.html