戦前、奥州藤原氏を
アイヌ民族とする説が存在。1950(昭和25)年、
中尊寺金色堂に安置される
藤原四代のミイラが科学調査され、
この説は完全に覆ります。次に白羽の矢が立ったのが安倍貞任でした。前九年の役で、貞任は敗死しましたが、
弟達は生き残り、大宰府へと配流されています。※前九年の役(1051-62)……源頼義率いる朝廷軍と蝦夷の戦い
過去記事リンク:安倍貞任までアイヌ民族?(゜〇゜; http://fuwameg.blog.fc2.com/blog-entry-1641.html
“かつては、安倍貞任のみならず、
奥州藤原氏までアイヌ民族と考えられていた。”上記を知った時、私は図書館にいたのですが。
危うく、叫びそうになってしまいました……。
コレ、中央の学者が本気で言っていたんですか?
最初から、
蝦夷のアベを訪ねれば良かったのに。
東北に残ったのは、母の家系だけじゃないし。
拙宅で何度も書いておりますが、
奥州藤原氏・初代清衡は安倍貞任の甥子。万が一にも、貞任がアイヌであるなら。
清衡はアイヌハーフでなければなりません。過去記事リンク:12世紀、道南は奥州藤原氏の勢力圏http://fuwameg.blog.fc2.com/blog-entry-1643.html#moreつまり、自らの非を認めたくない研究者(?)が、
苦し紛れに提示した「
安倍貞任アイヌ民族説」は、
1950年の段階で、同時に否定されていたのです。
そこから考えて。
今やっと、論争のラインが
大墓公アテルイまで後退したって事なのでしょうね。
写真は都内の某駅で見付けた、大墓公(たものきみ)アテルイ(?~802)。朝廷から大墓地域一帯を任されていたので、こう呼ばれます。岩手県奥州市には、跡呂井(あとろい)と云う地名が残っていて、付近には角塚古墳(5世紀末/前方後円墳)も存在します。恐らくは、コレが「大墓(たも)」と云う地域名の由来かと。つまり、200年以上前にヤマト化した地域の…
【 #アイヌ 】 蝦夷と朝廷 ~アテルイはアイヌに非ず
コレつまり。日本文化なら何でも、
中国・朝鮮由来とする
戦後教育と一緒です。
東北の文化は何でもアイヌ由来、みたいな?
戊辰戦争で敗けたでしょ?
以来、東北では、現代日本と同じ状態が続いていたんです。
東北を軽んじた結果が、
誰彼構わずアイヌ民族に引き抜かれ、
先住権を主張されると云う、現在の異常事態。
国民総出で、隙を作ってしまったんです。
読書き算盤、一切出来なかったアイヌが、
最初にこんな事を言い出す筈は無いんですから。
ですが、自らを、ただ単純に
「被害者」と位置付ける事はお奨め出来ません。
そこには、
心理学的な作用(罠)が潜んでいるからです。
「被害者」から導き出されるキーワードは何でしょうか?
「弱者」「無力」「可哀想」「助けてもらう必要のある人」
「助けてもらえない限り、自分では現状を変えられない人」
自称アイヌ民族と、隣の韓民族が、ドツボに嵌っているでしょう?一種の
ピグマリオン効果です。
※心理学用語悲観的な予言や思い込みで、暗示がかかる事により。
それが現実化され、抜けられないループへと発展するんです。
その逆もまた然り。
コレが、障害者でも貧乏人でも、ダメンズウォーカーでも同じ事。
問題を過剰に意識する事で、更に事態を悪化させてしまうんです。
故に、仏教では、「執われ(
囚われ)るな」と説きました。
2016/09/09 不破 慈(ふわめぐみ)
※同月12日、タイトル変更&本文末尾修正

以下、史料として、3件+α(アルファ)。
藤原清衡 (1056~1128)平安後期の奥州の豪族。奥州藤原氏初代。
父は藤原経清、母は安倍頼時の女。
後三年の役で勝利して後、摂関家への貢馬を始め、
平泉に居を移し、奥六郡と出羽山北を領するようになった。
平泉移住から晩年にかけて中尊寺を整備。
同寺金色堂にミイラ化した遺体が安置されている。
安倍貞任 (?~1062)平安時代中期の陸奥国の豪族。
厨川二郎と称した。奥六郡俘囚長安倍頼時の子。
前九年の役では、父頼時の戦死後も源頼義と戦い圧倒したが、
出羽山北の清原氏が頼義に味方したため形勢が逆転し、
1062(康平5)年に敗死。
安倍宗任 (生没年不詳)平安時代中期の陸奥国の豪族。
鳥海三郎と称した。奥六郡俘囚長安倍頼時の子。
前九年の役では兄貞任等とともに源頼義と戦ったが、
1062((康平5)年に降伏し、伊予国に配流され、のち大宰府に移された。
宗任の娘は藤原基衡の妻となったという。
※俘囚≒蝦夷/頼時の子は12人。そしてこちらは中央の安倍さん。
安倍清明 (921~1005)平安時代中期の陰陽家。父は益材。同じく陰陽家として著名な吉平の父。陰陽師・天文博士などを歴任し、天文密奏・地相鑑定などにしばしば活躍した。時代は摂関政治最盛期にあたり貴族たちの生活万般に関与、出産のための祓い、怪異出現の際のト占、外出日の吉凶判断、宮廷行事の日時の選定など、あらゆる行動に規範を示す役割をはたした。長命なこともありその行動例は多く、賀茂光栄とともに陰陽道全盛を築いた。道長の信頼をえて、木幡寺(浄妙寺)の寺地の選定にもあたった。その広範な活躍は後年にいたり、神を使ったとか天狗を封じたとかの荒唐無稽なものまで含め、さまざまな伝説を生みだした。
平安時代は、「安倍」と書くのが主流だったんですね~★(^▽^)ノ以上4件、日本古代史大事典(大和書房)より。
※漢数字をアラビア数字に、改行も加えました。 https://twitter.com/nibanmenoyagi/status/775194307212955648初回ツイート・控え https://twitter.com/nibanmenoyagi/status/774096028223975426
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