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二番目の山羊 ~アイヌは先住民族に非ず

2008年の先住民決議は騙し討ち。2019年のアイヌ新法も不当です。 ※現在は、twitterもFBもやっていません。 【 pixiv:5770560 】

擦文とオホーツク、最初の融合 ~トビニタイ文化

擦文とオホーツク、最初の融合
 ~トビニタイ文化~




私は北海道へ飛ぶことが出来ませんので。
本記事はあくまで、「紹介」のレベルに留まりますこと、ご了承下さい。

ウィキの内容で(一般的な知識としては)問題なさそうです。
以下、転載です。読み易いよう、改行を加えます。



トビニタイ文化  出典:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

トビニタイ文化(トビニタイぶんか)は、9世紀ごろから13世紀ごろにかけて、
北海道の道東地域および国後島付近に存在した文化様式の名称である。
1960年に東京大学の調査隊が羅臼町飛仁帯(とびにたい)で
発見した出土物が名称の由来である。


解説
トビニタイ文化の直接の源流はオホーツク文化である。
オホーツク文化に属する人々は以前から北海道に南下していたが、
7世紀から8世紀にかけては道北・道東に広く進出していた。

その後、9世紀になって擦文文化に属する人々が道北に進出すると、
道東地域のオホーツク文化圏は中心地である樺太から切り離されてしまった。
その後この地域のオホーツク文化は擦文文化の影響を強く受けるようになり、
独自の文化様式に移行していった。

これが現在ではトビニタイ文化と呼ばれる文化様式である。
トビニタイ文化はその後、擦文文化に同化し、13世紀初め頃には姿を消した。


熊の崇拝
斜里町のウトロ地区入口にある、
トビニタイ文化期のチャシコツ岬下B遺跡から
2005年、ヒグマを祭祀に用いた痕跡と思われるヒグマの骨が発見された。

これにより、擦文文化には見られなかった一方で
オホーツク文化には存在した熊崇拝は、トビニタイ文化を経由して
アイヌ文化にもたらされたのではないかとの見方も浮上している。


(引用ここまで、改行を加えました)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%88%E3%83%93%E3%83%8B%E3%82%BF%E3%82%A4%E6%96%87%E5%8C%96










下記の連続する前記事3件で、アイヌ集団の形成には
北方からオホーツク文化人の流入(合流)が確実であった事、
分子人類学(DNA)により判明している旨をご説明しました。

そして本記事では、それを考古学的に
裏付ける発掘が、既に成されている事を補足する次第です。


※13世紀には元軍の侵攻により樺太のオホーツク文化も滅び、
  その後、入れ換わるように北海道を中心としてアイヌ文化が形成。




 2017/04/30 縄文・弥生の二重構造説はもう古い。
 2017/05/13 シベリアからの流入、決め手はmtDNAのY
 2017/05/23 対立構図でアイヌを語る危険性

  http://fuwameg.blog.fc2.com/blog-entry-1717.html
  http://fuwameg.blog.fc2.com/blog-entry-1718.html
  http://fuwameg.blog.fc2.com/blog-entry-1719.html





***




特に、直前の記事を読んで下さった方は、
私が何を言いたいか、見当が付いていらっしゃると思います。




もし「プレアイヌ」、もしくは
「プロトアイヌ」と呼ぶべき対象があるのなら。



それは本州の北東北ではなく、
このトビニタイ文化です。







2017/06/14  不破 慈(ふわめぐみ)

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余談ですが、
アイヌ先住民族信仰の持ち主には、こう主張する方もいらっしゃいます。

先の引用記事の続きです。


(ウィキより、引用再開)
一方、文献上で確認される熊崇拝に関する記述は
『津軽一統志』におけるシャクシャインの戦い時のものであることなどから、
熊崇拝をトビニタイ文化から直接アイヌが受容したものではなく、アイヌの
樺太進出以降に長い時間をかけ受容されたものとする中村和之の見解もある。

(引用終了、改行を加えました)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%88%E3%83%93%E3%83%8B%E3%82%BF%E3%82%A4%E6%96%87%E5%8C%96



で、その「津軽一統志」ですが、こういった性格のものです。

津軽一統志 出典:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
大浦光信が南部氏に種里城を与えられてから、
先代藩主津軽信政までの250年間余りの歴史を編年体にて記し、
特に津軽藩祖である為信の津軽統一の事績を6巻(巻2-7)にわたって記し、
また信壽の父である信政の名君ぶりと寛文蝦夷蜂起の際に松前藩を助けて
江戸幕府から高く評価されたことを強調(巻9後半-10巻)している。

(引用終了、改行を加えました)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B4%A5%E8%BB%BD%E4%B8%80%E7%B5%B1%E5%BF%97



津軽藩からすれば、蝦夷地は管轄外です。
17世紀、幕命で一時的に当時の北海道に関わっただけ。

その際のアイヌ文化に対する記述が、果たして判断材料となるのか?
「当時は既に熊崇拝の文化を確立していた」くらいの証明にしか使えません。

松前藩が江戸期を通じて、アイヌの習俗に関する
詳細な記録を残していたともなれば、話はまた変わって来ますが。
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[ 2017/06/14 12:46 ] アイヌ問題 -4.DNA・人類学・考古学 | TB(0) | CM(0)
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Author:ふわふわ
不破 慈(ふわめぐみ)

アスペルガー症候群(軽度の自閉症スペクトラム/神経発生発達障害の一系統)です。もともとは個人的なブログ(主に当事者研究やエッセイ発表の場)でした。

協会の不正を告発する砂澤陣さんの活動を知り、亡くなった父が、私をアイヌどころか北海道とも無関係に育てた理由が解りました。

父方の祖母は陸奥源氏、福島の母方は東北の蝦夷(安倍氏)。私自身は神奈川県横浜市で生まれ育ちました。


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