阿倍陸奥臣(むつのおみ)
安倍柴田臣(しばたのおみ)
阿倍安積臣(あさかのおみ)
阿倍信夫臣(しのぶのおみ)
阿倍会津臣(あいづのおみ)
阿倍磐城臣(いわきのおみ)母の故郷・福島の記事が2件続いたので、もう一件オマケ。
上の6つは、全て
東北蝦夷(日本古来の蝦夷)のアベです。
名称の後半部は、居住地に基づく「
復姓」です。
下から、磐城・会津・信夫・安積の4姓が現在の福島県内で、
柴田は宮城県南部。陸奥臣は単純にそれ以北と考えて良いのかどうか。
そして、中央(大和朝廷)にもアベがいました。
阿倍内臣(うちのおみ)
阿倍渠曾倍臣(こそべのおみ)
阿倍引田臣(ひけたのおみ)
阿倍久努臣(くぬのおみ)
阿倍布勢臣(ふせのおみ)
阿倍狛臣(こまのおみ)
阿倍他田臣(おさだのおみ)
この中で一番の有力者が、
氏上(うじのかみ)として全体を代表しました。
ただ和同五年(712)に中央では復姓を廃し、以降は
阿倍朝臣に統一です。
祖神はオホビコノミコト(
阿倍大彦命)。
直接の祖は、その子のタケヌナカハワケ(建沼河別命)になります。
大彦命は第8代孝元天皇の長子、母は物部系のウツシコメ(鬱色謎命)。
弟君が、第9代開化天皇として即位なさいました。
さて、話を東北(蝦夷)に戻します。
過去記事と内容が重なりますが、初めての方の為に軽く触れます。
現総理は中央ではなく、蝦夷の系譜に連なります。
前九年の役で戦死した、奥六郡の
安倍貞任(1019?-1062)。
その弟・
宗任(むねとう)から数えて42代目に当たる方です。
※奥六郡……現在の岩手県奥州市~盛岡市付近敗戦で弟達は伊予へ、後に
大宰府へと流されました。
そんな情報を明かすところから見ても、嘘ではないでしょう。
史実(記録)とも合致しますし。
***
そして先程、大彦命と建沼河別命の話をしました。
四道将軍の話を思い出した方がいるかと思います。
第10代崇神天皇の時代に、太平洋側と日本海側から進軍、
父子がバッタリ出会って、「相津(
会津)」と。
実際、(蝦夷とは云え)アベ姓がその付近に集中しているのですよね。
ただ、東北のアベは奈良時代の後半、
土着の豪族に下賜された臣姓です。
……いや、「な~んだ」、じゃなくて( ̄∀ ̄;
会津盆地では、弥生時代の遺跡から、
北陸系の土器が発掘され、
古墳時代前期には、
大型の前方後円墳(亀ヶ森古墳/会津大塚山古墳)が出現。
そして、福島 → 宮城 → 岩手と北上すると、
岩手県奥州市に、
角塚古墳(5世紀末/前方後円墳)が見えて来ます。
繋がったよ、アベライン(゜〇゜;母の家に伝わる話です。
「
越(北陸)から今の福島に入ったのが、お母さんの家系だ」
古の人々は、それを神話という形で遺したのでしょうか。
最後、アイヌ問題に絡めてもう一つ。
現代アイヌ≪民族≫においては、「アテルイ慰霊祭」なるものを催します。
しかし、アテルイは
朝廷に仕える役人でした。
角塚古墳が存在する、大墓地域一帯を統べる郡領。
付近には、跡呂井(あとろい)と呼ばれる地名が残ります。
※大墓公阿弖流為/たものきみ・あてるい(?~802)戦前は、
奥州藤原氏までアイヌ≪民族≫だったんですよ。
しかし、昭和25年に中尊寺金色堂のミイラが調査され、この説は覆ります。
そうすると、今度は「安倍貞任がアイヌ民族ダー!」と騒ぎ出した。
初代・藤原清衡は安倍貞任の甥子ですから、当然、コレも通りません。
いつになれば学習するのかと思いますが、未だ、一部に頑張る人がいて。
今度は、「安倍貞任の配下がアイヌ民族ダー!」と投げて来る始末です。
……良いのか、それで( ̄∀ ̄;※アイヌ登場は13世紀に入ってからです。2018/02/08 不破 慈(ふわめぐみ)

越(北陸)から入って、そっくり入れ代わったとかじゃなくて。
どんどん混血していったらしく。その時代じゃとんぼ返りとか無理ですし。
大規模な入植は6世紀に入ってからのようですが、別段、争いの痕跡もない。
その時の記憶があるからこそ、後にどれだけ蔑まれ、攻め込まれようとも
臣下で在り続けたのでしょう。8世紀辺りから徐々に狂い始めました。
朝廷内で、阿倍氏や近しい氏族達が失速していく時期と重なります。
※コメント欄に、本文中で引用できなかった史料を掲載しておきます。
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阿倍(あべ)
大彦命後裔氏族中の最有力氏。建沼河別命(大彦命の子)を祖とし、氏名を安倍にも作る。本拠地は大和国十市郡安倍(奈良県桜井市阿部)。姓は初め臣、天武天皇十三年(684)の八色の姓制定に際し朝臣を賜る。
崇神朝に四道将軍として大彦命を北陸(高志道)へ、建沼河別命を東海(東方十二道)へ派遣したとの伝承が『古事記』『日本書紀』にみえるが、阿倍氏の管掌した丈部(はせつかべ)の分布が広く東国・北陸にみられ、同族の膳・阿閉・宍人等諸氏の勢力もこの地方に及んでいるので、大和政権の東国・北陸経営に、阿倍氏を中心とする大彦命後裔氏が深く関与していた事実が推察される。ただその時期は阿倍氏や膳氏が台頭する6世紀以降であろう。 [引用ここまで、p28より]
安倍(あべ)
大彦命後裔の中央豪族阿倍(安倍)氏に対し、奈良朝後期以降、賜姓によって阿倍(安倍)のウジを名のった陸奥の在地土豪。賜姓の対象となったのは、白河・磐城・磐瀬・安積・標葉・会津・信夫・伊具・柴田・色麻・賀美の陸奥南半諸郡の郡領級有力者で、賜姓は神護景雲三年(769)、宝亀三年(772)、承和七年(840)、同十一年、同十五年、貞観十二年(870)の6度にわたり、阿倍陸奥臣・阿倍安積臣・阿倍信夫臣・安倍柴田臣・阿倍会津臣・阿倍磐城臣の復姓が与えられている。旧氏姓は丈部・大田部・矢田部・丈部臣・丈部直・陸奥・陸奥臣・陸奥標葉臣・奈須直・磐城臣で、丈部がもっとも多く、初期の賜姓は部姓者に限定される。復姓下半部の氏名は、居住地に因むものが少なくない。
阿倍氏はかつて丈部を管掌した伴造中の一氏であったから、右の賜姓は大化前代から存在した阿倍氏と陸奥南半部の土豪層の、部民制的支配関係を基礎として、辺境豪族の中央貴姓化がすすめられた事実を意味しよう。中央の貴族社会ではすでに復姓はその実態を失っており、復姓賜姓は、賜姓者の姓が朝臣ではなく臣であることから、中央阿倍氏との間に賜姓によって同族的結合関係が生ずることはなかったとみてよい。 [引用ここまで、p30より]
※過去記事もどうぞ。
◆12世紀・道南は奥州藤原氏の勢力圏(2016/05/25)
http://fuwameg.blog.fc2.com/blog-entry-1643.html
◆蝦夷と朝廷、アテルイはアイヌに非ず(2016/07/26)
http://fuwameg.blog.fc2.com/blog-entry-1649.html