北海道のことばかり語られますが、
本州の北端にも、アイヌはいました。江戸時代にだって、フツ~に
和人と結婚する人がいたんですよ?図書館に返してしまったので、
表紙写真を用意できなかったのですが、
山川出版社の「
青森県の歴史(県史2)」からです。
※抜粋(漢数字⇒アラビア数字) 18世紀以降、アイヌ民族居住地に和人が急速に増加し、彼らが居住するようになると、アイヌの居住空間はせばまり、
和人との同化が加速した。弘前藩では宝暦6(1756)年に宇田村から大川平村にかけてのアイヌ民族を強制的に和人の人別帳に入れて、さらに文化6(1809)年にも和人への同化を進めた。しかし、彼らの独自の文化は北奥でも人々の間で受容され、
安政4(1857)年頃の下北半島を記した記録には、大畑の民衆がアイヌの衣料のアツシを着用していることを記している。すでに
天明8(1788)年の『奥民図彙』にも宇鉄・三厩の漁民たちがアイヌ文様で飾られた着物を着用していることを記し、下北・津軽両半島に居住する和人たちは、アイヌ文化を日常的にうけとめていたようだ。
※青森県の歴史(県史2) p220~221より引用
山川出版社 2002.2.25 第一版 2021.11.30 第二版
長谷川成一 打越潔 小口雅史 斉藤利男 小岩信竹……「強制的に和人の人別帳に入れて」と読むと、
さも酷いことをされたかのように思う人がいるでしょうが、
コレは行政としては当然のことです。
この
人別帳(にんべつちょう)とは、今でいう住民票みたいなもの。
人が住んでいるのに、管理も何もせず放っておくことは出来ないでしょ?
実際、飢饉に際して、領主側は「
施行小屋(せぎょうごや)」を
設置するなどして
救済措置をとったそうですが、
領内の人間でなければ、
「人返し」が原則。その
行政サービスを受けることは出来なかったんです。
そして、この人別帳に組み入れられた時に、弘前藩では、
領民(和人)とアイヌの婚姻が、正式に認められるようになりました。
大規模に混住し、結婚して子供が生まれる夫婦だっているのに、
「アイヌだから」との理由で扱いを変えたら、それこそ「差別」では?
差別していたら結婚はしないし、
馬鹿にしていたらアツシだって着ません。
そういう人達が、明治時代になってから、
急に北海道を侵略し、アイヌを虐殺したと言うの?
2021/04/01 不破 慈(曾祖母はアイヌ)
女性はとくに、和人男性に嫁ぎたがったと聞きます。
妊娠・出産の負荷を考えれば道理。落ち着いて定住したい。
狩猟メイン⇒農耕メインへの社会構造の転換とは、そういうもの。
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