13世紀末、元軍の侵攻を受け、
樺太からオホーツク文化人が南下。
※抜粋(漢数字⇒アラビア数字、[]内はルビ) 1284年に、元軍は樺太遠征も行いました。これは、その前年に、アムール河下流から樺太に住んでいた吉里迷[ギレミ](ギリヤーク族、今はニブフと呼ばれる)が、モンゴル建国の功臣ムカリ(国王と呼ばれる)の子孫シデの遠征により、モンゴルに服従したことによります。元の家来になっていた樺太の吉里迷が、骨嵬[クイ](アイヌ族)が毎年侵入してくると訴えたので、それを追い払うための遠征でした。
1284年から86年、元は征東招討司に骨嵬攻撃を命令し、85年には1万人、86年には「兵万人・舟千艘」で功撃しましたが、これはアイヌによる黒竜江流域への侵入を排除するためで、この
84~86年の攻撃により、アイヌ勢は樺太からほぼ排除されてしまいます。そうして元は樺太南端に果夥[クオフオ]城を設けたのです。
※世界史のなかの蒙古襲来(p232-233)/宮脇淳子/扶桑社2019.6.30……史学界を中心に、
骨嵬[クイ]≒アイヌと考えられていますが、
オホーツク文化人の間違いです。アイヌ御用学者による弊害もあるかと。
オホーツク文化人は、3世紀頃から樺太を中心に栄え、
13世紀には、忽然と姿を消してしまった人達です。文言(名称)に囚われなければ、史実にピッタリと当て嵌まるでしょう?
或いは、ギレミにクイ、双方がオホーツク文化人だったのかも知れません。
つまり、
部族間抗争に、北方のギレミが元軍を介入させた、ということ。
その場合は、ギレミによって、オホーツク文化が存続される筈ですが。
樺太北部には、金王朝の代から支配が及んでいたとする見方もあり、
オホーツク文化人としてのギレミは、既に変容していたのかも?
さて。話を、難民化したオホーツク文化人に戻します。
彼等の南下は、13世紀が初めてではありません。
3段階で考えると解りやすいでしょう。
①阿倍比羅夫と戦闘 ⇒ 持統天皇の御代に朝貢(7世紀)
②道東域のオホーツク人が擦文化 ⇒ トビニタイ文化(9・10世紀~)
③北の元寇で難民に。北海道に流入 ⇒ アイヌ文化(13・14世紀~)
……②について補足します。
道東域のオホーツク文化人はですね、
以前から擦文文化人との同化が進んでいました。
トビニタイ文化です。
知床半島の羅臼町・飛仁帯で遺跡が発見されたことから、こう呼ばれます。
実は、1960年に遺跡が発見されるまで、研究者は頭を悩ませていたんです。
北海道の歴史が繋がらなくて。擦文⇒アイヌだと文化的隔絶が大き過ぎる。
それが、トビニタイ文化(9・10世紀~)の発見により、解消されました。
擦文とオホーツク、両者を足して2で割ったような文化・生活様式なんです。
それでも、以下のように主張する人々がいるでしょう(↓)
「オホーツク人は不法侵入者。
擦文人を駆逐して居座ったのがアイヌ」
……残念ながら、オホーツク文化単独でも、アイヌ文化に繋がりません。
オホーツク文化人は海洋民で、少なくとも3種の舟を使い分け、
居住域は海岸部に限定されました。最も内陸の遺跡ですら、
現在の海岸から、1kmの距離にあるくらいなんです。
オホーツクと擦文は、確実に融合しました。
2022/06/26 不破 慈(曾祖母はアイヌ)
※一箇所修正、2023.8.14

オホーツク文化の遺跡としては、網走川河口のモヨロ貝塚が有名ですが。
奥尻島でも、6~7世紀頃の遺構が見付かっています。
青苗砂丘遺跡です。
※阿倍比羅夫との戦闘&持統朝への朝貢については、過去記事をどうぞ(↓) アイヌとして成立する500年前から天皇の臣下 (2020/08/01) http://fuwameg.blog.fc2.com/blog-entry-2070.html
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ときに、青空文庫に知里真志保という方のアイヌに関する著作がいくつかあがってますが、この方はどうなんですか? 「どうなんですか?」というのもおかしな質問ですが、まだ読んではおらず、機会があれば読んで見ようかとも考えておりまして……。