嘗ては、南樺太も続縄文文化圏でした。特にアニワ文化は、続縄文の一地方形だと
日露双方の専門家に広く認識されています。※論文の内容の要旨(福田正宏氏)
極東ロシアから北日本における先史土器の研究 ―紀元前1千年紀のアムール下流域
~北海道における土器型式群の系統論的考察―※途中から抜粋、改行を加えました3.サハリン新石器文化の土器型式間交渉 新石器時代のサハリン南部には南サハリン・アニワ・鈴谷文化がある。南サハリン文化の宗仁式は道東の縄文早期の型式と関係するとされたが不確実で,
アニワ式は宗谷海峡周辺の続縄文期の型式である。サハリン北部には櫛歯ジグザグ文土器をともなうイムチン文化,櫛歯文・櫛描文・型押文土器のある北サハリン文化があった。
(略)新石器時代のサハリン南北では,土器型式の変遷が通時的に大きく異なった可能性が高い。
アニワ式の一部もしくはその次に成立した南部の縄線文土器と北サハリン文化の櫛歯文土器が,旧国境線あたりで接触して櫛歯文・縄線文をもつ鈴谷式が成立したのなら,この段階で南北の対置的な文化配置が崩れたと考えられる。
※福田正宏氏(現・東大准教授)の学位論文要旨、全文(↓)
http://gakui.dl.itc.u-tokyo.ac.jp/data/h17/216438/216438a.pdf……「旧国境線あたりで接触して」「鈴谷式が成立したのなら」とあります。
引用文から判るように、
鈴谷式土器(文化)は、南北の特長を併せ持ちます。
続縄文の一型式orオホーツクの一型式かで、専門家の見解が分かれており、
それが原因で、オホーツク文化の成立も、5世紀or3世紀で分かれます。
①鈴谷式が続縄文系なら、オホーツク文化成立は5世紀頃
②鈴谷式がオホーツク系なら、オホーツク文化成立は3世紀頃
何れにしろ、北方(北樺太)要素の強まった鈴谷文化は、
宗谷海峡を越えて、3世紀頃には道北にも南下してきました。
続縄文の一型式である、アニワ文化の後を受けて拡がったんです。
もともと、北海道と樺太には、旧石器時代から交流がありました。
縄文土器だって出て来ます。対岸の南樺太から。ただ、数は少なくて。
あくまで
客体としての出土なので、縄文文化圏としては扱われませんが。
単純に、現地の人々が土器型式を受け入れたと考えることも出来ますが。
恐らくは、人の移動を伴ったでしょう。混交も進んだと思いますよ。
北上するに連れ、血(縄文要素)は薄まったでしょうけれど。
続縄文時代とは、単純な縄文文化の継続ではありません。
もともと、北海道縄文人は魚介・海獣に依存する食生活でしたが。
続縄文時代になると、更に
漁撈採集へと特化していくんですよ。
ここに、オホーツク圏の海洋民との親和性が見られます。
樺太~北海道北部~千島列島の、環オホーツク海南岸一帯が、
後にオホーツク文化人と呼ばれることになる人々の縄張りでした。
2022/07/03 不破 慈(曾祖母はアイヌ)
※一部修正(11/14)

現在、「北海道にも弥生時代があった」との主張が散見されます。
確かに、土器型式で見れば、恵山式(渡島~石狩)は弥生系土器ですが。
問われるのは主たる生業です。水稲水田耕作の導入を以って弥生時代です。
※前4世紀、本州北端でも稲作が行われますが、すぐ放棄されました。
北東北も暫くの間、南樺太~北海道~千島と同様、続縄文文化圏でした。
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