8世紀後半。秋田城下にも
オホーツク文化人が住んでいた。
※一部を引用(漢数字⇒アラビア数字)持統10(696)年に粛慎の志良守叡草[しらすのえそう]が渡嶋の蝦夷とともに朝貢しているが、その同族と思われる志良須宇奈古[しらすのうなこ]が8世紀後半に秋田城の城下に定住していたことが知られ、[以下略]
※秋田県の県史 県史5(p33)/山川出版社/初版2001.5.25 第2版2012.3.25
……「東北の歴史を基本から」と意気込んで借りて来た県史5。
分子人類学(DNA人類学・遺伝人類学)で、予想はできていましたが。
ガッツリ住んでいましたよ。オホーツク文化人が。本州側に!(°∀°;
オホーツク文化人由来とされる、ミトコンドリアDNAハプロ型Y1。
本土日本(和人)側も、50万人前後が保有しているんですけれど。
狩猟採集漁撈社会と比べ、農耕社会では人口増加率が高いとは云うものの、
相当に遡った時期における流入を設定しないと、説明が付きません。
幕末~明治以降の150年間に、アイヌと混交したくらいでは、
こんな、とてつもない頭数にはならないんですよ。
日本人(Y1保有者)
1億2000万 × 0.4% = 48万人
1億3000万 × 0.4% = 52万人
アイヌ系日本人(Y1保有者)
2万人 × 20% = 4000人
3万人 × 20% = 6000人
……8世紀には、
粛慎の朝貢が相次いでいたそうです。
次第に文献からは「粛慎」の文字が消え、日本海側の蝦夷を指す
「夷狄(いてき)」という用語で、一纏めに括られるようになります。
それほどまでに、同化が進んでいたということでしょう。
秋田城下に定住していたのも、宇奈古一人ではないと思われます。
そもそも、
現代日本人に伝わるミトコンドリアDNAハプロ型Y1は、
女性の流入があったという証拠なんです。母系にしか伝わりませんからね。
アイヌ先住民族説を否定できれば、ネタは何でも良いと思っているのか。
「
Y1は強姦の証拠だ」と主張する人々を見る度、頭痛がしてきます。
粛慎に貢女を強制したという史実もないので。そこはご安心下さい。
2022/08/13 不破 慈(曾祖母はアイヌ)
※タイトル微修整(8/18)

オホーツク文化人。最盛期でも
せいぜい4000~5000人と見られます。
この全人口推計は勿論、女子供・年寄りといった、非戦闘員を含む数字。
全員が南下したワケでもなく、道東域のオホーツク人は既に擦文と同化。
「13世紀、大軍団が北海道に襲来」などの妄想は、完全にお伽噺です。
- 関連記事
-