「渡嶋」と目にすれば、大抵の人が
北海道の渡島(おしま)半島を連想します。ただし、読みは「ワタリノシマ」です。北海道~本州に跨る海峡付近を指しました。
※引用(改行を加えました)
津軽の北ということから、当然のなりゆきとして導かれる、渡嶋を北海道とする説が、近年の学界では有力である。しかしその前提には、当時の「津軽」を現在の津軽半島一帯にまで広げて考える理解があり、この点についてはさらに慎重に検討しなければならない。
というのは、中世になっても、津軽三郡ないし津軽四郡と称されて「津軽」の名を冠せられた地域は、津軽鼻和郡(津軽半島南部から、その南方の岩木川左岸地域)、津軽平賀郡(岩木川上流地域)、津軽田舎郡(黒石市・平川市・南津軽郡田舎館村付近)、および遅れて史料に登場する津軽山辺郡(黒石市・青森市浪岡付近)だけであって、これらの地域には津軽半島北部は含まれていないのである。津軽半島海辺部は、中世になって国郡制が本州の北端にまでおよんだ段階でも、「郡」の名がつかない、外浜(陸奥湾岸沿い)、西浜(日本海側)とよばれる、エゾの住む特殊な世界であった。つまり
津軽半島海辺部・北部は、津軽のうちではなく、むしろ津軽の先に広がる渡嶋のうちと考える余地は十分にあるわけである。
※青森県の歴史(県史2)p45より/山川出版社2012.11.30(第2版)
……少なくとも
中世まで、津軽は半島の南部を指す名称だったんですね。
引用を続けます。
※再度、引用
さらに、北海道内部での地域差も考慮する必要がある。
北海道では、この比羅夫「北征」の時代に続縄文文化から擦文文化への転換期を迎える。擦文文化とは、擦文土器という、縄文に代わって刷毛で擦ったような模様をもつ、本州の土師器の影響を強くうけて成立した土器の名に由来する文化で、石器が消滅して鉄器が普及し、農耕をうけいれながらも、なお狩猟・漁撈が生活の基盤であった時代の文化である。
そして
その新しい文化は、道央部から誕生している。もともと縄文文化でも続縄文文化でも、道央部と道南部とでは地域差があった。
道南部はむしろ津軽海峡をはさんだ世界と一体性がある。このことを先にふれた津軽半島の海辺部に「津軽」に含まれない地域があったこととあわせて考えれば、この
津軽半島海辺部と道南部という、まさに海峡をはさむ世界こそ、渡嶋であると考えられる。
※青森県の歴史(県史2)p46より/山川出版社2012.11.30(第2版)
……
北海道の地名は、明治以降に制定されたものが多いんです。
日本書紀や伝承に基づいて命名されたり、アイヌ語が基になっていたり。
アイヌ語由来の地名が、必ずしもアイヌの土地とは限らないのと一緒です。
昨今、7世紀の北海道に、阿倍比羅夫が郡領を設置していたとか、
飛鳥時代から律令制に組み込まれていた等、諸説が飛び交っていますが。
日本書紀に登場する地名があるからといって、
史実の証明には使えません。
2022/08/20 不破 慈(曾祖母はアイヌ)

知床半島の斜里町で、
8世紀・奈良時代に鋳造の神功開宝が出土しました。
但し、
9世紀のオホーツク文化人の遺跡から。擦文人経由での入手でしょう。
貨幣の出土≒律令の証明とはなりません。通貨は、広範な移動をする物です。
宋銭にいたっては、遠くペルシアで見付かるくらい。道内からも出土します。
- 関連記事
-