縄文時代は母系社会だった。
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間違いではありません。
実際、その期間は長かった。ですが、縄文も後晩期に入ると、
東日本では父系社会へと移行します。
※漢数字⇒アラビア数字 国立歴史民俗博物館名誉教授の春成秀爾は、人骨の出土状況や装身具の着装傾向、抜歯のあり方などを手がかりに、縄文時代の社会を次のように見通している。
縄文時代晩期の東日本では、夫方居住婚が支配的で父系制の傾向がある。東海地方西部から近畿地方では選択居住婚で、双系制的である。西日本では妻方居住婚が優勢で母系制の傾向がある。
※山田康弘著、「縄文時代の歴史」p275/講談社現代新書2510/2019.1.20 縄文晩期:
東日本 ……… 夫方居住婚(父系制)
東海~近畿 … 選択居住婚(双系制)
西日本 ……… 妻方居住婚(母系制)
日本列島における婚姻後の居住方式は、妻方居住婚から選択居住婚を経て夫方居住婚へと移行していく。その移行の時期は、東日本では縄文中期末から後期頃で、西日本では弥生時代の前期から中期にかけてと遅くなる(春成2002、図59)。私も、時期的に細かい相違はあるものの、大筋ではこの考え方に賛成である。この場合、東日本の中期から晩期には父系的な社会が存在し、東海・近畿地方には、晩期にいたり双系的な社会が出現し、中国地方から九州にかけては縄文時代を通して母系的な社会が存在したと理解できるだろう。ただ、私は中国地方に関しては、男性側が婚出する妻方居住婚を主としつつも、場合によっては女性も婚入しうる双系的な社会が存在したと考えている(山田2010)。
※山田康弘著、「縄文時代の歴史」p276より、図はp277から……縄文~弥生にかけて、以下のように社会が変遷しますけれど。
少なくとも、
東日本の縄文時代に関しては、定住化の度合いや、
集落の大型化(人口の集中)が契機だったと思っています。
<母系> 妻方居住 ⇒ 選択居住 ⇒ 夫型居住 <父系>縄文時代においては、人口が100人を超えれば大集落でした。
有名な山内丸山(青森県)では、人口500人説が独り歩きしましたが。
あれは発掘初期の予想です。実際には、最大でもその半分程度でしょう。
最初は小さな集落から出発した山内丸山も、
縄文中期に最盛期を迎えます。
ちょうどその頃、
東北で選択居住婚が行われるようになっていますよね。
山内丸山遺跡:前期中頃~中期末葉(5900~4200年前)
後期に入り、気候が寒冷化すると、大規模な集落を維持できなくなります。
しかし、母系制には戻りませんでした。そのまま父系制へと移行します。
一方の西日本。縄文中期に入っても、移動生活が続いていました。
と云っても、旧石器時代のような獲物を追って彷徨う形態ではなく。
しっかりとした拠点(ベースキャンプ)が設けてあるんですよ。
そこを中心に縄張りの中を移動する。季節定住の場合もあります。
専門的には、コレクター型(拠点回帰型)という名称がありますが。
素人には、
半定住or半移動といった理解でも充分かと思います。
実を云うと、アイヌがこの形態だったんですよ(^▽^;
だから学者は、縄文時代の研究でアイヌを参考にするんです。
父系社会への移行に話を戻しますけれど。
ゴー宣道場によりますと、皇位の男系継承とは、
「大陸中国の父系社会(宗族制)の影響」なのだそうで。……否、縄文時代にも父系社会への移行は起きていたし(・◇・;
そもそも、男系継承自体は、世界中の王朝で行われていたし(°。°;
いますよね。何でもかんでも「
中国と韓国から貰った」と言い張る人。
2023/6/4 不破 慈(曾祖母がアイヌ)

大陸中国で女帝と云えば、ただ一人。
武則天しかいませんね。
非常に権勢を奮いましたが、
死後は皇后の待遇で葬られました。
だから日本では、「
則天武后」の呼び名で知られているんですよ。
生前は本人の政治力が怖くて、誰も何も言えなかったということ(^▽^;
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