松前藩による「禁農モデル」という学説があります。
単純に、アイヌに農業を禁止したという主張ではなく。アイヌが農業に挑戦するのを
禁止した、という内容です(ー。ー;禁農モデル 深澤(1995)アイヌ社会においての農耕文化は擦文文化期以後
アイヌ社会内の欲求により常に進展していたと考えられるにもかかわらず、「意図的なイデオロギー」によって
その動きが禁止されるという、人為的行為によって阻害された結果、実践的な折衝としてアイヌ社会内で再生産され、その現象が変容した文化的要素として認められるようになったと考える。これを禁農モデルと呼ぶ。
[p11より] 擦文からアイヌ ―農耕の縮小― 総合地球環境学研究所
東北大学大学院 国際環境研究科 深澤百合子 https://www.chikyu.ac.jp/neo-map/file/fukasawa-01.pdf……詳細は、上記リンク先でご確認頂きたいのですが(↑)
要は、
アイヌが農業をやりたがっているのに松前藩は認めなかった、
苦労して手に入れた種子も取り上げられ、農具さえも渡して貰えない。
彼等のチャレンジ精神を流言飛語まで用いて潰した、といった内容です。
↓↓↓
1786(天明6)年 佐藤玄六朗の報告
『蝦夷地之儀是迄見分仕候趣申上候書付』「古来より蝦夷地において穀類を作立候儀は法度の様に相成り」
「先年イシカリと申候所の川上にて、稲を作り相応に出来在候処其段松前え相聞、領主役人より申付候哉、又は商人共の仕業の候哉、籾、種子迄残らず取り上、右作仕候蝦夷ともえは、ツクナイを出す為候由の風聞等之有り」
[p12より]https://www.chikyu.ac.jp/neo-map/file/fukasawa-01.pdf……さて、困りました。
当時、気候はどんどん寒冷化していったので。
耕作地の縮小については、考古学&古気候学での反論も可能です。
※アイヌも初歩的な農耕(園耕)なら行っていました。 中世温暖期(擦文)⇒ 小氷期(中世アイヌ → 近世アイヌ)でも、「言った・言わない」「やった・やらない」の次元になると……?
事件の捜査に喩えますが。考古学や古気候学は、“
鑑識”の役回りです。
一方の文献史学は、“
当時の証言”について取り扱う分野なんですよ。
でも、私。文献史学は、ダメダメなんです(―。―;
そんなワケで、文献史学が得意な方に、ご協力をお願いしたいのです。
被告人席で、一方的に弾劾される松前藩の“弁護”を担って頂きたく。
とは云え、全くの丸投げも無責任と思います。
そこで、私なりに仮説を一件、立ててみました。
アイヌと松前藩は、交易を行っていましたが。米などの農産物が、松前藩側の主要な交易品なら、
種子や苗、農法(道具・技術)の漏洩を防ぐのでは?現代でも、
隣国の無断栽培が問題視されていますが。
それと同じですよ。アイヌが和人の技術を欲したなら、
交渉の上、相応の対価を支払い、指導を仰ぐ必要がある。
勿論、当時のアイヌに、そんな道理は理解できません。
読み書き算盤、一切できなかった人達なんですから。
他の、もっと単純な理由だったかも知れませんが。
以上、文献史学のみならず、商取引に詳しい方の助力も必要です。
「松前藩の方針で」「農業を教えることを禁じている」とあったので。
和人から教わらない限り、アイヌに農業が無理だったことは理解できました。
↓↓↓
1857(安政4)年 『石狩日誌』
松浦武四郎(1973年丸山道子訳)「家のそばにはムニノカン(狸豆)、マーメ(いんげん豆)、ムンシロ(粟)、リテアママ(もち粟)、ヒヤハ(稗)などを作っているが、こういう農作業は女の仕事とされている。かれらはまだ鍬を持っていないので、まさかりの側面に木の柄をとりつけて鍬の代わりに使っているが、
これは松前藩の方針で、かれらに農業を教えることを禁じているので、運上屋もアイヌには鍬を渡さないためである」
[p13より]https://www.chikyu.ac.jp/neo-map/file/fukasawa-01.pdf2023/8/19 不破 慈(曾祖母がアイヌ)
※アップ当日、引用文二箇所追加&タイトル修正

樺太では、「農耕をやると病気になる」といった噂が流れていたそうですが。
米先住民にも、母なる大地に爪や牙を立てることを忌避する部族がいました。一種の信仰ですね。それが迷信であろうと、狩猟採集民の世界観としてある。
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