黒水靺鞨 ≠ オホーツク文化人黒水靺鞨渡来説というものがあります。アムール川流域から海を渡って来た人々が、
オホーツク文化の担い手になったというもの。
40年ぐらい前までは、有力視されていました。ですが、両者の間には、類似点より相違点が目立ちます。
何より
靺鞨文化においては、製鉄技術が発達していました。
石器と骨角器を用いていたオホーツク文化人なのでしょうか?
※引用 オホーツク文化の住居址は基本的に六角形であるが、靺鞨文化の住居址は正方形である。オホーツク文化の住居址では奥壁部にクマの頭骨を置いてある例がしばしば見出されるが、靺鞨文化の住居址にそのような類例はない。
(略)
墓制では両文化とも仰臥屈葬が多いという共通点はあるが、靺鞨文化には一度埋葬した墓を掘り起こして、供養の後に再び埋葬する再葬(または二次葬)の葬法が一般的である。靺鞨文化の墓には埋葬の際に遺体を白樺の樹皮で包み、その上で火を焚いて土をかぶせた被火葬もある。靺鞨文化の墓にはしばしばウマが殉葬されている。
オホーツク文化には再葬や被火葬の例はない。オホーツク文化の墓にウマの殉葬の例はなく、そもそもオホーツク文化の遺跡からウマの骨の出土例もない。 (略)
オホーツク文化の生業は主として沿海における漁労と海獣狩猟である。遺跡からはさまざまな種類の魚の骨が出土している。海棲哺乳動物ではアザラシ・オットセイ・アシカ・トド・クジラ・イルカなどの骨が多量に出土している。
(略)
靺鞨文化の生業は主として農耕である。遺跡からは炭化したコーリャンや、住居址の床面から出土した土器の内部に焦げたキビが見出された。靺鞨文化の遺跡にブタの骨が多いことは靺鞨が農耕民であったことを示している。
(略)
また靺鞨文化では製鉄技術が発達しており、鉄器・鉄製品が製作され、石器や骨角器はわずかに見出されるに過ぎない。オホーツク文化の遺跡では製鉄の痕跡は見出されず、石器と骨角器の発達が特徴的である。
引用注:「同仁」は、中国側で発掘された遺跡から命名。後に「靺鞨=同仁」と判明。※新北海道の古代2 続縄文・オホーツク文化(p190-191)
編著:野村崇・宇田川洋/北海道新聞社2003.7.10
【引用文・図は、菊池俊彦氏が担当した箇所より】……
両者は交易をしていたので。靺鞨の文化圏で製作された物品が、
同時代の、オホーツク文化人の遺跡から出土することもあります。
ですが。考古学では、動産と不動産を、同じようには扱いません。
土地に刻まれた痕跡(不動産)と違い、動産は持ち込むことができる。
また、交流がある以上、儀礼や慣習を取り入れることも、起こり得ます。
紀元前の大陸で、北方にいた狩猟採集民を「粛慎」と呼びました。
それに倣い、6世紀頃から日本と関わるようになった北方系の
海洋漁撈民を、「粛慎」と呼ぶようになったのですが。
これは、大陸と日本が、交流を持っていたことから発生した事象です。
あくまで、当時の証言として、文献史料に記述が遺されているということ。
対して、考古学は鑑識です。証言に引き摺られていては、判断ミスを犯します。
さてさて、紀元前の粛慎。無論、大陸の北方にいた人々のほうですけれど。
早くに農耕(園耕)を取り入れます。地域毎に、依存度は違ったようですが。
呼び方も、
粛慎 ⇒ 挹婁 ⇒ 勿吉 ⇒ 靺鞨 と、時代によって変遷しました。
靺鞨は、隋・唐代の名称です。幾つもの部族に分かれていたそうですが。
後に、渤海を建国する人々や、金・清を建国する人々が登場しました。
特に、金王朝・清王朝を立てた人々が、黒水靺鞨の系譜に連なります。
黒水靺鞨 ⇒ 女真(女直)⇒ 満州人
※新北海道の古代2 続縄文・オホーツク文化(p197)
編著:野村崇・宇田川洋/北海道新聞社2003.7.10
【引用図は、菊池俊彦氏が担当した箇所より】黒水靺鞨の一部でも、オホーツク文化人……になった可能性は低いでしょう。
靺鞨文化が成立するよりも早く、樺太でオホーツク文化が成立していたので。
オホーツク文化 : 3世紀~13世紀頃まで ※5~13世紀説あり 靺 鞨 文 化 : 6世紀後半~8世紀頃まで ※7~10世紀説あり2023/9/16 不破 慈(曾祖母がアイヌ)

「黒水」……つまりは、
黒竜江(アムール川)のことですね。
「清朝、父祖の地」と云うでしょ? そうやって覚えて下さい(^^)
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やっと気温も落ち始めて気分が落ち着くこの頃です。
日常における仕事の割とつまらない問題も昔は気が
つかないことも想像できるこのごろです。
ネット情報のある情報は本当に目につきにくく、最近の
インボイス制度の件は本当に伝達がわかりずらい風に伝わり
ます。まあ、制度の誕生を説明しているのであって、
内容を説明していませんし。まあ、どうでもよいのですが。
身体の状態や気分に気を付けてお過ごしください。