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二番目の山羊 ~アイヌは先住民族に非ず

2008年の先住民決議は騙し討ち。2019年のアイヌ新法も不当です。 ※現在は、twitterもFBもやっていません。 【 pixiv:5770560 】

アイヌによる嫌がらせ:杉田水脈議員が法務局から「啓発」

杉田水脈議員が受けた「啓発」は、
「呼びかけ」レベルの、最も軽い措置


 ↓↓↓


※弁護士ドットコムより
法務局が杉田水脈議員に行った「啓発」措置の意味
アイヌ差別投稿「人権侵犯」認定

2023年09月20日 17時56分


 自民党の杉田水脈衆院議員がブログなどでアイヌを差別する投稿を行ったとして、札幌法務局は人権侵犯にあたると認定し「啓発」を行ったと北海道新聞が9月19日、報じた。

 法務省人権擁護局によると、「啓発」は人権侵害の申告があった事案に関して法務局が調査し、必要に応じて講じる措置のうちの一つ。同省ホームページでは「関係者や地域に対し、人権尊重に対する理解を深めるための働きかけを行う」と説明している。

7種類のうちで最も軽い措置

法務省の人権相談は、2004年の訓令「人権侵犯事件調査処理規程」に詳細が定められている。

被害申告を窓口や電話、インターネットで受け付け、必要に応じて職員や人権擁護委員が調査。侵犯事実の有無を判断し、以下の7種類のうち適切な救済措置を講じる。

【援助】関係機関への紹介、法律上の助言等を行う。
【調整】当事者間の関係調整を行う。
【説示・勧告】人権侵害を行った者に対して改善を求める。
【要請】実効的対応ができる者に対し、必要な措置をとるよう求める。
【通告】関係行政機関に情報提供し、措置の発動を求める。
【告発】刑事訴訟法の規定により、告発を行う。
【啓発】事件の関係者や地域に対し、人権尊重に対する理解を深めるための働きかけを行う。(法務省HPより)

反省を促し、善処を求める「説示」や、人権侵犯をやめさせ、繰り返させないために文書で事実を摘示する「勧告」などに比べ、最も軽いと言える。啓発は、人権侵害の事実が認められなかった場合でも出せるが、今回はアイヌの女性の申し立てに応じて、人権侵犯の事実が認定されたと報じられており、一定の救済措置として行われたと考えられる。

杉田議員は2016年、国連会議の参加者についてブログやSNSに「チマ・チョゴリやアイヌの民族衣装のコスプレおばさんまで登場」「同じ空気を吸っているだけでも気分が悪くなる」などと投稿したとされている。

2018〜2022年の法務省統計では、アイヌの人々に関する人権侵犯事件は2022年に「援助」が1件のみとなっている。
https://www.bengo4.com/c_18/n_16524/





※問題視されたという、肝心の写真(↓)

光野智子、糸数慶子、ZouXiaoqiao、阿部千里、多原良子、2016年撮影
※左から、光野智子、糸数慶子、ZouXiaoqiao、阿部千里、多原良子

チョゴリとコスプレ、2016年撮影、国連の女子差別撤廃委、スイス





……朝日新聞の報道で知りましたが。
二枚目の写真に写っているのは、在日コリアンの女性だそうです。
大阪法務局に救済を申し立てたとか。まぁ、関西在住でしょうからね。

札幌法務局に申し立てをした多原良子(おそらくは複数名のうちの代表)は、
上の写真、右端の人物です。札幌アイヌ協会幹部。過去記事でも解説しました。

 【画像】アイヌコスプレおばさん ←子孫の私が思う (2022/12/07)
 http://fuwameg.blog.fc2.com/blog-entry-2300.html




尚、多原良子のことは、さっぽろ雪まつりの
イベント予算を横領した「犯罪者」としても、
既にご記憶の方がいらっしゃるかと存じます。

 ↓↓↓

札幌アイヌ協会激震
「公費私物化疑惑」を現職理事が集団告発
週刊ポスト 2020.08.31 16:00

https://www.news-postseven.com/archives/20200831_1591078.html



 アイヌ文化PRイベントの予算8000万は国民の血税 (2020/09/01)
 http://fuwameg.blog.fc2.com/blog-entry-2075.html
 アイヌ協会公費私物化 ~メノコモシモシは横領目的の設立団体 (2020/09/06)
 http://fuwameg.blog.fc2.com/blog-entry-2077.html




2023/09/20  不破 慈(曾祖母がアイヌ)  ※11/5、リンク追加

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人権侵犯事件、2022年にアイヌ関連で最高位の「援助」があったそうですが。
以下の決議で合っていますか? 法律に詳しい方、助けて下さい(_ _;

 日本弁護士連合会:アイヌ民族の権利の保障を求める決議(2022年9月30日)
 https://www.nichibenren.or.jp/document/civil_liberties/year/2022/2022_4.html

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[ 2023/09/20 21:47 ] アイヌ問題 -1.アイヌ・IR利権 | TB(0) | CM(1)

満州人の祖先:黒水靺鞨 …オホーツク人に非ず

黒水靺鞨 ≠ オホーツク文化人


黒水靺鞨渡来説というものがあります。

アムール川流域から海を渡って来た人々が、
オホーツク文化の担い手になったというもの。

40年ぐらい前までは、有力視されていました。




ですが、両者の間には、類似点より相違点が目立ちます。
何より靺鞨文化においては、製鉄技術が発達していました。

石器と骨角器を用いていたオホーツク文化人なのでしょうか?



新北海道の古代2続縄文・オホーツク文化、北海道新聞社2003  ※引用

 オホーツク文化の住居址は基本的に六角形であるが、靺鞨文化の住居址は正方形である。オホーツク文化の住居址では奥壁部にクマの頭骨を置いてある例がしばしば見出されるが、靺鞨文化の住居址にそのような類例はない。
 (略)
 墓制では両文化とも仰臥屈葬が多いという共通点はあるが、靺鞨文化には一度埋葬した墓を掘り起こして、供養の後に再び埋葬する再葬(または二次葬)の葬法が一般的である。靺鞨文化の墓には埋葬の際に遺体を白樺の樹皮で包み、その上で火を焚いて土をかぶせた被火葬もある。靺鞨文化の墓にはしばしばウマが殉葬されている。
オホーツク文化には再葬や被火葬の例はない。オホーツク文化の墓にウマの殉葬の例はなく、そもそもオホーツク文化の遺跡からウマの骨の出土例もない。

 (略)

 オホーツク文化の生業は主として沿海における漁労と海獣狩猟である。遺跡からはさまざまな種類の魚の骨が出土している。海棲哺乳動物ではアザラシ・オットセイ・アシカ・トド・クジラ・イルカなどの骨が多量に出土している。
 (略)
 靺鞨文化の生業は主として農耕である。遺跡からは炭化したコーリャンや、住居址の床面から出土した土器の内部に焦げたキビが見出された。靺鞨文化の遺跡にブタの骨が多いことは靺鞨が農耕民であったことを示している。

 (略)
また靺鞨文化では製鉄技術が発達しており、鉄器・鉄製品が製作され、石器や骨角器はわずかに見出されるに過ぎない。オホーツク文化の遺跡では製鉄の痕跡は見出されず、石器と骨角器の発達が特徴的である。


新北海道の古代2続縄文・オホーツク文化、p190下
 引用注:「同仁」は、中国側で発掘された遺跡から命名。後に「靺鞨=同仁」と判明。

※新北海道の古代2 続縄文・オホーツク文化(p190-191)
 編著:野村崇・宇田川洋/北海道新聞社2003.7.10
 【引用文・図は、菊池俊彦氏が担当した箇所より】





……両者は交易をしていたので。靺鞨の文化圏で製作された物品が、
同時代の、オホーツク文化人の遺跡から出土することもあります。

ですが。考古学では、動産と不動産を、同じようには扱いません。
土地に刻まれた痕跡(不動産)と違い、動産は持ち込むことができる。

また、交流がある以上、儀礼や慣習を取り入れることも、起こり得ます。



紀元前の大陸で、北方にいた狩猟採集民を「粛慎」と呼びました。
それに倣い、6世紀頃から日本と関わるようになった北方系の
海洋漁撈民を、「粛慎」と呼ぶようになったのですが。

これは、大陸と日本が、交流を持っていたことから発生した事象です。
あくまで、当時の証言として、文献史料に記述が遺されているということ。

対して、考古学は鑑識です。証言に引き摺られていては、判断ミスを犯します。




さてさて、紀元前の粛慎。無論、大陸の北方にいた人々のほうですけれど。
早くに農耕(園耕)を取り入れます。地域毎に、依存度は違ったようですが。

呼び方も、粛慎 ⇒ 挹婁 ⇒ 勿吉 ⇒ 靺鞨 と、時代によって変遷しました。


靺鞨は、隋・唐代の名称です。幾つもの部族に分かれていたそうですが。
後に、渤海を建国する人々や、金・清を建国する人々が登場しました。

特に、金王朝・清王朝を立てた人々が、黒水靺鞨の系譜に連なります。


 黒水靺鞨 ⇒ 女真(女直)⇒ 満州人


新北海道の古代2続縄文・オホーツク文化、p197

※新北海道の古代2 続縄文・オホーツク文化(p197)
 編著:野村崇・宇田川洋/北海道新聞社2003.7.10
 【引用図は、菊池俊彦氏が担当した箇所より】




黒水靺鞨の一部でも、オホーツク文化人……になった可能性は低いでしょう。
靺鞨文化が成立するよりも早く、樺太でオホーツク文化が成立していたので。


 オホーツク文化 : 3世紀~13世紀頃まで ※5~13世紀説あり
 靺 鞨 文 化 : 6世紀後半~8世紀頃まで ※7~10世紀説あり




2023/9/16  不破 慈(曾祖母がアイヌ)

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「黒水」……つまりは、黒竜江(アムール川)のことですね。
「清朝、父祖の地」と云うでしょ? そうやって覚えて下さい(^^)

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[ 2023/09/16 13:09 ] アイヌ問題 -4.DNA・人類学・考古学 | TB(0) | CM(4)

アイヌ時代は小氷期【補稿】年単位での古気候復元

最近は、年単位での
古気候復元が可能です。



中塚武著、気候適応の日本史、図11

※中塚武/気候適応の日本史 人新世をのりこえる視点(p92-93)
  吉川弘文館 歴史文化ライブラリー544/2022.3.1

中塚武、気候適応の日本史、吉川弘文館2022




上図は、古気候学がご専門の、中塚武先生(理学博士)の著書からです。
見開きページをスキャンしたので、見難いとは思いますが、ご了承下さい。

中部日本の森林で、樹木年輪を調査して得られた過去2600年の復元図です。

樹木年輪から、古気候を復元する研究は、海外でも行われて来ました。
ところがですね。日本の学者が、年単位の気温の変化に留まらず、
年単位の降水量の変化まで復元する技法を開発したんです(!)


正確には、植物が最も成長する、夏場の気温&降水量の変化ですけれど。
※年輪の繊維質(セルロース)を構成する成分(酸素や水素)の同位体比から算出



「NIPPON, CHA-CHA-CHA!」と踊り出したい気分を抑えて、記事本題。
以下は、冒頭のグラフの右サイドです(↓) ザッと流れを説明しますね。


中塚武著、気候適応の日本史、図11、右半分
※中塚武/気候適応の日本史 人新世をのりこえる視点(p92)
  吉川弘文館 歴史文化ライブラリー544/2022.3.1





800~1300年頃は中世温暖期です。900~1100年頃は特に暖かかった模様。
1100年前後だと、東北は平泉政権の時代。半ば独立国として存在しました。
北海道は擦文時代です。本州からの入植者も増え、園耕社会が成立します。

 北海道で農耕が行われた擦文時代:中世温暖期 (2023/07/22)
 http://fuwameg.blog.fc2.com/blog-entry-2334.html



ですが、以降は下がり始めますよね? 小氷期に突入したんです。
北海道は、狩猟採集メインの、アイヌ文化の時代を迎えました。


グラフをよく見ると、1200年前後にも一時的に下がっていますが。
この時期、源平合戦が行われましたね。奥州藤原氏も滅亡します。
これにより、本土日本が実質的に統一されました(日本の中世)。

以降は、鎌倉 ⇒ 室町 ⇒ 安土桃山と、戦乱の世が続きます。


1600年、関ヶ原で徳川軍が勝利すると、すぐに江戸時代。
1603年に幕府を開きました。日本の近世が始まるんですね。




……が。再度、グラフでご確認下さい。そこから、“寒さの底”を迎えます。
江戸時代は、飢饉が頻発しましたよね。特に、“三大飢饉”は有名ですけれど。

享保・天明・天保。うち、享保の飢饉(1732)は蝗害(イナゴ・ウンカ)。
西日本で大凶作となりました。天明・天保は冷害で、東北で甚大な被害


※下図の最上部でご確認下さい(↓)
中塚武著、気候適応の日本史、図15
※中塚武/気候適応の日本史 人新世をのりこえる視点(p150)
  吉川弘文館 歴史文化ライブラリー544/2022.3.1




天明の飢饉(1782-1787)
 各藩の記録によれば、天明の飢饉による東北北部の餓死者数は、弘前藩で10万2000人、八戸藩で3万105人、盛岡藩で4万850人とあり、仙台藩では餓死と疫病死を合わせて20万人以上であった。 [p235]

天保の飢饉(1833-1839)
 農作物の不作が連続して発生し、作柄をみると全国平均で、1833年が52.5%、1835年は57.2%、1836年が42.4%とおよそ半分に減少しており、奥州ではそれぞれ35%、47.2%、28%と大凶作となった。冷害は1838年まで続き、餓死者が大量に発生した。弘前藩では餓死(7万4860人)と疫病死(2万6000人)により、藩内人口の半分が死亡した。 [p242]


※田家康/気候文明史 世界を変えた8万年の攻防(p235,242)
 日本経済新聞出版社/2010.2.19 [漢数字⇒アラビア数字]

田家康、気候文明史、日本経済新聞出版社2010




……天明・天保と、北海道に近い東北での様子を、
気象予報士の田家康先生の著書からご紹介しましたが。
上記の通り、冷害の影響は、寒い北日本で、より甚大でした。

そんな時代に、狩猟採集民のアイヌが、北海道で農耕……???


否、チャレンジ精神は否定しません。事実、初歩的な園耕は行っていました。
もっと、レベルの高いことをしてみたかったのかも。和人のようになりたくて。


 アイヌ女性の畑仕事:園耕のお話 (2022/10/29)
 http://fuwameg.blog.fc2.com/blog-entry-2293.html
 アイヌ時代は小氷期:松前藩の禁農モデルについて (2023/08/19)
 http://fuwameg.blog.fc2.com/blog-entry-2336.html




2023/9/3  不破 慈(曾祖母がアイヌ)

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園耕民(狩猟+農耕)の強みは、いつでも農耕を切り捨てられる点にあります。
時々の気候条件に合わせて、狩猟採集オンリーの生活に、後戻りが可能なんです。

完全な農耕社会に移行すると、それが出来ません。餓死者が増える理由の一つです。



 名古屋大学大学院環境学研究科 地球環境科学専攻大気水圏科学系
  古気候学グループのサイト ⇒ https://pcl.has.env.nagoya-u.ac.jp

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[ 2023/09/03 14:55 ] アイヌ問題 -4.DNA・人類学・考古学 | TB(0) | CM(0)

アイヌ時代は小氷期:松前藩の禁農モデルについて

松前藩による「禁農モデル」という学説があります。
単純に、アイヌに農業を禁止したという主張ではなく。



アイヌが農業に挑戦するのを
禁止した、という内容です(ー。ー;





禁農モデル  深澤(1995)
アイヌ社会においての農耕文化は擦文文化期以後アイヌ社会内の欲求により常に進展していたと考えられるにもかかわらず、「意図的なイデオロギー」によってその動きが禁止されるという、人為的行為によって阻害された結果、実践的な折衝としてアイヌ社会内で再生産され、その現象が変容した文化的要素として認められるようになったと考える。これを禁農モデルと呼ぶ。[p11より]


 擦文からアイヌ ―農耕の縮小― 総合地球環境学研究所
  東北大学大学院 国際環境研究科 深澤百合子

 https://www.chikyu.ac.jp/neo-map/file/fukasawa-01.pdf




……詳細は、上記リンク先でご確認頂きたいのですが(↑)

要は、アイヌが農業をやりたがっているのに松前藩は認めなかった
苦労して手に入れた種子も取り上げられ、農具さえも渡して貰えない。
彼等のチャレンジ精神を流言飛語まで用いて潰した、といった内容です。

 ↓↓↓


1786(天明6)年 佐藤玄六朗の報告
『蝦夷地之儀是迄見分仕候趣申上候書付』

「古来より蝦夷地において穀類を作立候儀は法度の様に相成り」
「先年イシカリと申候所の川上にて、稲を作り相応に出来在候処其段松前え相聞、領主役人より申付候哉、又は商人共の仕業の候哉、籾、種子迄残らず取り上、右作仕候蝦夷ともえは、ツクナイを出す為候由の風聞等之有り」[p12より]
https://www.chikyu.ac.jp/neo-map/file/fukasawa-01.pdf




……さて、困りました。当時、気候はどんどん寒冷化していったので。
耕作地の縮小については、考古学&古気候学での反論も可能です。
※アイヌも初歩的な農耕(園耕)なら行っていました。


 中世温暖期(擦文)⇒ 小氷期(中世アイヌ → 近世アイヌ)



でも、「言った・言わない」「やった・やらない」の次元になると……?


事件の捜査に喩えますが。考古学や古気候学は、“鑑識”の役回りです。
一方の文献史学は、“当時の証言”について取り扱う分野なんですよ。

でも、私。文献史学は、ダメダメなんです(―。―;


そんなワケで、文献史学が得意な方に、ご協力をお願いしたいのです。
被告人席で、一方的に弾劾される松前藩の“弁護”を担って頂きたく。





とは云え、全くの丸投げも無責任と思います。
そこで、私なりに仮説を一件、立ててみました。


アイヌと松前藩は、交易を行っていましたが。

米などの農産物が、松前藩側の主要な交易品なら、
種子や苗、農法(道具・技術)の漏洩を防ぐのでは?




現代でも、隣国の無断栽培が問題視されていますが。
それと同じですよ。アイヌが和人の技術を欲したなら、
交渉の上、相応の対価を支払い、指導を仰ぐ必要がある。

勿論、当時のアイヌに、そんな道理は理解できません。
読み書き算盤、一切できなかった人達なんですから。

他の、もっと単純な理由だったかも知れませんが。




以上、文献史学のみならず、商取引に詳しい方の助力も必要です。

「松前藩の方針で」「農業を教えることを禁じている」とあったので。
和人から教わらない限り、アイヌに農業が無理だったことは理解できました。

 ↓↓↓


1857(安政4)年 『石狩日誌』
松浦武四郎
(1973年丸山道子訳)

「家のそばにはムニノカン(狸豆)、マーメ(いんげん豆)、ムンシロ(粟)、リテアママ(もち粟)、ヒヤハ(稗)などを作っているが、こういう農作業は女の仕事とされている。かれらはまだ鍬を持っていないので、まさかりの側面に木の柄をとりつけて鍬の代わりに使っているが、これは松前藩の方針で、かれらに農業を教えることを禁じているので、運上屋もアイヌには鍬を渡さないためである」[p13より]
https://www.chikyu.ac.jp/neo-map/file/fukasawa-01.pdf



2023/8/19  不破 慈(曾祖母がアイヌ) ※アップ当日、引用文二箇所追加&タイトル修正

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樺太では、「農耕をやると病気になる」といった噂が流れていたそうですが。
米先住民にも、母なる大地に爪や牙を立てることを忌避する部族がいました。
一種の信仰ですね。それが迷信であろうと、狩猟採集民の世界観としてある。

[タグ未指定]
[ 2023/08/19 13:04 ] アイヌ問題 -4.DNA・人類学・考古学 | TB(0) | CM(0)

北海道で稲作が可能に:石狩川・捷水路工事(大正7~)

北の大地にコメが実るまで
 ~石狩川・捷水路(しょうすいろ)工事~


竹村公太郎著、日本史の謎は「地形」で解ける【文明・文化編】、PHP文庫20140219 ※引用

 北海道の太平洋側は米作りの気候ではなかった。夏は霧が多く北東の冷風が吹き寄せ、気温は上昇しなかった。釧路の7月の平均気温は16度、8月でも17度しかなかった。この厳しい低温の壁は稲の品種改良で乗り越えられるものではなかった。

 それに比べ西の日本海側では米がどうにか作れた。冬の雪は多かったが夏は晴天が多く、気温も比較的上昇した。札幌の7月、8月の平均気温は21度で、札幌から北120kmの旭川でも7月、8月の平均気温は20度もあった。

 米」の可能性のある日本海側、その日本海側の平野全域が石狩川の流域であった。入植者は米作りを目指し石狩平野の石狩、空知、上川地域に入っていった。

 ところが、この石狩平野では途方もない魔物が入植者を待ち受けていた。内地では見たこともない魔物であった。

 石狩平野の魔物、それは「泥炭層」であった。



 (略)
 泥炭は燃料には使えたが、稲作には適さなかった入植者たちは重労働を繰り返し、表土の農作土を他から搬入した。しかし、下層の泥炭層はいやというほど水分を含み、搬入した農作土はすぐ腐食して使い物にならなくなった。水分を含む泥炭層は雪が融けてもなかなか乾かず、初夏になり乾燥しかけてもわずかな降雨でまた元の泥炭湿地に逆戻りした。

 泥炭層の水を抜く。泥炭層の地下水を低下させる。それが入植者たちの生死の分かれ目となっていった。
 (略)


 北海道の未来がかかった困難な使命が、土木技術者たちに課された。

 彼らは徹底的な石狩川のショートカット、すなわち捷水路計画を策定した。流れにくい蛇行部をショートカットして直線にする。このショートカットは内地でも実施されている一般的な手法である。

 しかし、石狩川のショートカットは別の狙いを秘めていた。

 ショートカットすると何が起きるか。蛇行部を直線にすると流れは一気に速くなり、洪水は短時間で流れ去ってくれる。内地の河川のショートカット効果はそれまでである。

 ところが、石狩川では違う。石狩川の川底は柔らかい泥炭層である。流れが速くなると川底の泥炭は削られていく。川底が削られると石狩川の水位は下がる。水位が低下すれば泥炭層の地下水は石狩川に吸い出され、低下していく。



 その狙いは見事に当たった。直線化で石狩川の流れは速くなり、川底は水流で削られて低下していった。川底が下がると、泥炭層の地下水は次々と川に吸い出され、低下していった。石狩川の各地にはショートカットされた蛇行部の三ヶ月湖が残されている。その残された三ヶ月湖はすべて石狩川より高い位置に浮くように存在している。それが石狩川の川底が削られて低下したことの証となっている。

 土木技術者たちは、今まで苦しめられてきた石狩川の流れの力を逆に利用したのだ。


※竹村公太郎著/日本の謎は「地形」で解ける【文明・文化編】(p168-173)
 PHP文庫2014.02.19 [初出:建設オピニオン2004年10月号]






……まるで、プロジェクトXですね。

捷水路工事は、大正7(1918)年から開始され、
石狩川は、全長360km ⇒ 268kmに短縮されます。

それ以前は、泥炭層のみならず、洪水被害にも悩まされました。


最後に。再び、竹村公太郎さんの言葉を紹介します(↓)



※引用
 地球規模の人口増加と、天然資源の逼迫の未来、地球の寒冷化では人類は救われない。温暖化だからこそ救いはある。特に、南北に3000kmと細長い日本列島で、温暖化は有利に働く。なぜなら、亜寒帯の北海道が、温帯になるからだ。北海道は東北六県と北関東を合わせた広さを持っている。その全道が優良な農耕地帯となっていく

 北海道は未来の日本の切り札となる。明治以降、北海道の開拓者たちは、未来の切り札として北海道を準備してくれていた。

※竹村公太郎著/日本の謎は「地形」で解ける【文明・文化編】(p160)
 PHP文庫2014.02.19 [初出:建設オピニオン2004年10月号]




………どうか、プロアイヌや御用学者の言葉に惑わされないで下さい。
北海道開拓は、偉大な歴史です。文字通り、日本の未来を切り拓きました。




2023/8/5  不破 慈(曾祖母がアイヌ)

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私とて、開拓者の子孫の一人です。父の家系は、佐渡から北海道に渡りました。
そこに一夫一妻の配偶者として、アイヌの女性(私の曾祖母)を迎えたのです。

[タグ未指定]
[ 2023/08/05 13:15 ] アイヌ問題 -2.北海道・アイヌ | TB(0) | CM(0)
ふわふわでぇす!

ふわふわ

Author:ふわふわ
不破 慈(ふわめぐみ)

アスペルガー症候群(軽度の自閉症スペクトラム/神経発生発達障害の一系統)です。診断済み・手帳持ち。もともとは個人的なブログ(主に当事者研究やエッセイ発表の場)でした。

協会の不正を告発する砂澤陣さんの活動を知り、亡くなった父が、私をアイヌどころか北海道とも無関係に育てた理由が解りました。

父方の祖母は陸奥源氏、福島の母方は東北の蝦夷(安倍氏)。私自身は神奈川県横浜市で生まれ育ちました。


※最も解りやすいアイヌ問題
   ↓↓↓


 ◆アイヌ狂歌シリーズ


◆先住民族とは
◆在ヌ論について
◆北方領土について

◆強姦説について
◆的場光昭について
◆チャンネル桜について

◆古谷経衡について
◆篠原常一郎について
◆小林よしのりについて①
◆小林よしのりについて②

◆杉田水脈議員の発言①
◆杉田水脈議員の発言②

◆アシリ・レラについて
◆アイヌの盗作活動について


 サイト上部、横並び6件
 記事も宜しくお願いします。


※コメ欄にも、欄外追記として
  よく続報を書き込みます。



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